「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」 ヨブ記26章14節

 26章は、ビルダドの三度目の発言に対するヨブの応答です。25章のビルダドの言葉があまりにも短かったことと、本章5節以下の段落のテーマがビルダドの主張に添ったものであるために、5~14節はビルダドの言葉であると考えて、25章6節以下につなげて解釈する学者も少なからずおられるようです。岩波訳もその立場をとっています。

 ことの真偽はよく分りませんが、主なる神は、ヘブライ語原典を現在のかたちで私たちに伝えさせておられ、またビルダドの立場との相違も垣間見えることから、与えられているままに受け取り、学んでいくべきだろうと思います。

 ヨブは、「あなた自身はどんな助けを力ない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え、どんな策を多くの人に授けたというのか」(2,3節)という言葉でビルダドの発言を遮り、反論を開始しています。

 ビルダドは、「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう」(25章4節)と言い、月星も神の前に輝きを失う(同5節)と語った後、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」(同6節)と断じました。

 ここに、人間のことを、「人(エノシュ:死ぬべき存在 mortal man)」、「女から生まれた者」、「蛆虫」、「虫けら」と語っています。有限の存在であり、月や星よりも清さにおいて劣る人間、蛆虫、虫けらに過ぎない者が、全能の神と言い争うことなど、許されることではないという発言でしょう。

 それを受けたヨブも、「力ない者」、「無力な腕」(2節)、「知恵のない者」(3節)と、それを展開しています。そして、友人たちによって、神の御前に力なく、無力で、知恵のない者とされている自分を、どのように助け、救い、忠告し、方策を授けたのかと問うのです。

 これは、ビルダドをはじめ、友らの言葉は、自分にとって、何の助け、救いにもならず、忠告を受けることも、苦難から抜け出す方策を授かることもなかったと、皮肉をこめて語っているわけです。

 5節以下に森羅万象の知識を披瀝していますが、これは、25章2,3節のビルダドの神の力、御業をたたえる言葉を受けて、その程度のことは自分も知っているという表現です。これは、一回目の対話においてビルダドの発言(8章)に対して答えた、9章の言葉に重なる発言になっています。

 たとえば、9節の「覆い隠す」は9章7節の「太陽は昇らず」、11節の「天の柱は揺らぐ」は9章6節の「地の柱は揺らぐ」、12節の「海」、「ラハブ」は9章8,12節に、それぞれ出て来ます。

 その結論として、冒頭の言葉(14節)のとおり、「これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか」と言います。あらゆる知力や感覚を総動員しても、神について見聞きし、知り得ることはごく一部、ほんの僅かなことだということです。

 このことも、9章2節の「神より正しいと主張できる人間があろうか」、また、同4節の「御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑なになりながら、なお、無傷でいられようか」と重なっていました。 

 「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」の「僅かな」(シェーメツ)というのは大変珍しい言葉で、旧約聖書中2度だけ、それもヨブ記だけに用いられています。ここと、もう一か所は4章12節です。

 そこでは、「シェーメツ」が「かすかに」と訳されていました。エリファズは、忍び寄るかすかな声によって神の知恵の言葉を聞いたと語っていました。、そのとき聞き取ったのが、同17節以下の括弧に括られている言葉です。 

 ヨブは「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」と受けた上で、「その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」と語ります。「雷鳴」という言葉は、詩編81編8節に「わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した」というところにも用いられています。

 この詩編の言葉は、出エジプトの物語を簡潔に描き出しています。神は、エジプトにおいて苦役のゆえに嘆いていたイスラエルの民の助けを求める叫びを聞かれ(出エジプト記2章23節)、モーセを遣わしてエジプトの国から導き出されました(同12章51節)。

 神は、民をシナイの荒れ野に導き(同19章1節)、シナイ山で十戒を含む律法をお授けになります(同20章1節以下)。その際、神は雲の中に姿を隠し、雷鳴をもってモーセに語られました(同19章16,18,19節)。

 雷鳴をもって語られる神のイメージを浮かび上がらせて、「かすかに聞いた」というエリファズに挑戦しているようです。また、「力強さ」(ゲブーラー)という言葉は、ツォファルに答えるヨブの言葉の中で、12章13節の「神と共に知恵と力(ゲブーラー)はあり、神と共に思慮分別もある」というところに用いられていました。

 しかしながら、神の知恵、力の強さ、思慮分別は、今のヨブにとって、自分が正しいと神の御前に主張することが出来ない(9章2節)、そうすれば、ただでは済まない(同4節)という、喜ぶことの出来ないものでした。「誰が悟りえよう」というのは、そういう思いなのでしょう。

 22章以下、三度目の対論において、ヨブの発言に何度も「誰?」(ミー)という疑問代名詞が用いられます。23章2節、24章25節がそうでした。今回は、4節に二度用いられています。そして、「誰が?」と言っていますが、その答えは明らかに「神」を示しています。

 ヨブは4節で、神の言葉を取り次いでいるのか、神の息吹(ネシャーマー:霊、息)があなたを通して吹いているのかとビルダドに質しています。それを仄めかす発言は、ビルダドの言葉から伺うことは出来ませんが、エリファズの発言(4章17,18節)を25章4,5節に引用しているのは、自分も同様に神の霊の導きを受けているということを示しているのでしょう。

 ヨブがそう質しているということは、彼らの発言が神の言葉の取次だとは思えない、彼らが神の霊の導きを受けているとは考えられないということでしょう。神に自分の苦しい思いを訴え、神に応えて欲しいと思っているヨブは、だから、神に替わって発言する友らの言葉はいらないと考えているのでしょうか。

 一方、力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらし、知恵のない者に忠告を与え、問題を解決する策を授けるためには、神の言葉、神の息吹が必要だと、ヨブは考えているわけです。それは、何より、ヨブが求めているものだからです。

 力がなく、知恵を必要としているとき、神の言葉を求めましょう。神の霊の導きを求めましょう。日々神の言葉、霊の導きに与り、その恵みを共に分かち合いましょう。力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらす神の愛の言葉、慰めの言葉を分かち合うことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。

 私たちが神について知っていることは僅かで、神の御言葉の力強い轟きに較べれば、私たちの言葉は囁きにもなりません。謙遜に、神の導きを祈り求めましょう。神に用いられる器として頂くために、主の導きに従順に、喜びと感謝をもって従う者となりましょう。

 主よ、私たちはふつつかな僕にすぎません。私たちに語るべき言葉、為すべき業を教えてください。御言葉と御霊の導きに従順に、喜びと感謝をもって従うことが出来ますように。この地に御心をなす器として用いてください。主の御名が崇められますように。 アーメン