「手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて、あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか。」 ヨブ記10章3節

 神と共に裁きの座につき(9章32節)、神との間を調停し、仲裁してくれる者がいて(同33節)、神の裁きの杖が取り払われれば(同34節)、自分はその潔白を主張できる(同35節)と、夢物語を語ったヨブは、相手を特定しないまま、神に向かって言いたいことを口にします(2節以下)。

 「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう」(1節)という言葉は、3章20節、7章11節の言葉をなぞっており、最後に「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国にわたしが行ってしまう前に、その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ」(21,22節)というのも、3章5,6節のイメージを再提示しています。

 それは、神の創造の御業に思いを馳せて、ヨブがこの世に生まれた意味、目的を、改めて神に問うためです。ヨブは、9章5節以下で神の創造の御業の意図が理解不能だと語っていましたが、それで神に問う思いを諦めたのではなく、むしろ、自分の生きる意味や苦しみのわけを、きちんと理解できるようにしてほしいと、必死に訴えているわけです(2節)。 

 そこで、冒頭の言葉(3節)を語ります。神は、創造の御業において、一つ一つを心を込めて造られ、出来たものをご覧になって、「良し」とされました(創世記1章4節など)。神は、御自分がよしと認められた完成品を、邪険に捨て去られるのか。まるで、悪巧みする者たちを輝かせるかのように。それが神のなさることなのか。それを、「良し」と言われるのか、と。

 原文には、「このわたし」という言葉はありませんが、「手ずから造られた」とは「あなたの手の産物」(イェギーア・カペイハー)という言葉で、ここで神が虐げ退けようとしているのはヨブですから、そのように意訳されているわけです。8節の「御手をもってわたしを形づくってくださったのに」という言葉も、この意訳を支持してくれるでしょう。

 9節で「心に留めてください、土くれとしてわたしを造り、塵に戻されるのだということを」と言います。陶器師は、思いのままに土を選び、こね、成型して器を作ります。意に沿わなければ、何度でもそれを壊して作り直します。このイメージがヨブに新たな思いを示しました。それは、そのようにする陶器師が間違っているわけではない、悪いわけではないということです。

 「乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった」(10,11節)と、胎内での受胎、そして胎児の形成を表現しているのは面白いところですが、ヨブはここに、自分の誕生は、両親による性の営みなどではなく、「あなた」と呼ぶ神の御業だと言い表しています。

 しかもそれは、「命と恵み(ヘセド)を約束し、あなたの加護によってわたしの霊は保たれていました」(12節)と、ヨブに命を与えた神は、「変わらぬ愛」(ヘセド)をもってヨブを守って来られたのです。「加護」は、「訪問、責任」(ペクダー)という意味の言葉です。繰り返し訪れて、彼の成長を見届けておられたということです。

 ところが、そのようにヨブを心に留め、よいものをもって満たしてくださっていた神が、突然豹変してしまわれました。13節の「しかし、あなたの心に隠しておられたことが、今、わたしに分かりました」という言葉に、その思いが表現されています。

 自分の苦しみが去らないのは、神が自分の過ちを見逃されないからだ(14節)。ヨブが母の胎に形づくられてこのかた、ひと時も休まず見守って来られた方は、保護を与えられるのと同様、どんな細かいことも一つ残らず几帳面に記録し、可能な限り十分な罰をお与えになるのだ。

 数々の苦しみを味わって来たのは、神がヨブの悪を一つ一つ告発するために、「次々と証人を繰り出し、いよいよ激しく怒り、新たな苦役をわたしに課せられ」(17節)ているという証拠なのだ。

 ヨブは今この議論の中で、ある程度自分の過ちや罪、弱さを認めているように見えます。だから、自分がこのように苦しみを受けているのは、神の間違っておられるのだという訴えを取り下げています。

 ただ、そのように神に罪を攻めたてられるなら、どんな人も「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国」(21節)に追い遣られてしまうでしょう。そんな苦しみを味わうくらいなら、産まれる前に母の胎から墓へと運ばれていればよかった、母の胎を出て、だれの目にもとまらぬうちに死んでしまえばよかったという結論に至ってしまうでしょう(18,19節)。

 けれども、ヨブの心にあるのは、そんな絶望的な思いばかりではありません。「わたしの人生など何ほどのこともないのです。わたしから離れ去り、立ち直らせてください」(20節)と言います。もし神がそのように追及する手を緩めてくださればと願います。「立ち直る」というのは、「明るい顔になる、微笑む、輝く」(バーラグ)という言葉です。

 「光あれ」(創世記1章3節)といって光ある世界を創造された神が、「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国」(21節)、「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほど」(22節)という、創造以前の世界に自分を追い遣ってしまわれないようにと願うのです。

 ひどい皮膚病に覆われ、灰の中に座して苦しみ呻いていたヨブの心に、長いトンネルの向こうに光が見える兆しが表われ始めたといって良いのかも知れません。

 我が国では、年間の自殺者が1998年に急増して3万人を突破して、14年連続で高い水準にありました。しかし、2009年から減少に転じて2012年に3万人を割り、昨年は21,312人でした。これはしかし、交通事故死者の6倍弱です。最近はインターネットで自殺指南をするサイトもあるようです。

 警察庁の自殺白書によると、15歳から39歳の死因のトップが自殺であり、死因に占める割合も大きなものがあります。因みに、15歳以下と40代は、死因の2位が自殺、50代前半が3位となっています。若者の死因のトップが自殺というのは、先進7か国では日本だけで、その死亡率も他国に比べて高いものになっています。

 様々な悩みを抱える中、それを心開いて相談し、適切な解決の道を見出すことが出来ず、孤独に死を選び取るしかなかった方々の無念さを思います。ヨブは、病と孤独の苦しみの中で、神に訴えました。神が土くれに過ぎない自分を心に留めてくだされば、明るい顔になれると、一縷の望みを抱いています。

 それは、かつて、命と恵みを約束された神が、苦しみ呻いているヨブの霊を、今も守り支えているからでしょう。そして、そのことに彼の眼が開かれるように、彼の心にその思いを与えて、ヨブに神を呼び求めさせておられるということではないでしょうか。

 愛の神は、私たちにも主イエスを信じ、「アバ父よ」と神を呼ぶ霊を授けてくださいました(ローマ書8章15節)。ですから、私たちの希望は失望に終わることはないのです(同5章3~5節)。

 どんなことでも思い煩うことをやめ、何事でも感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ4章6,7節)。

 主よ、私たちはあなたのお創りになった美しい世界に生かされていながら、なんと多くの苦しみに囲まれていることでしょう。多くの人々が周りにいるのに、深い孤独感に苛まれています。そこに私たちの罪があります。主よ、私たちの国を憐れんでください。弱い私たちを助けてください。命の光の世界が開かれますように。すべての人々の上にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン