「このように、人間とも言えないような者だが、わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と。」 ヨブ記9章32~35節

 ヨブは、ビルダドの「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(8章3節)という言葉の正当性を認め、「それは確かにわたしも知っている。神より正しい(ツァーダク)と主張できる人間があろうか」(2節)と語ります。そして、その知識が今ヨブを苦しめているのです。

 神は確かに正しいお方です。その裁きも、正しいものであるにちがいありません。だから、正しい者にはよい報いがあり、悪しき者には悪しき報いがあるはずです。

 しかし、今、ヨブは悩み苦しんでいます。愛する子らの死は、正しい神による裁きなのでしょうか。ヨブが全身ひどい皮膚病に悩まされているのは、いったいどういう理由があるというのでしょうか。ヨブは、これほど苦しまなければならないような過ち、神に裁かれ、懲らしめられなければならないような罪を犯した覚えがないのです。

 神は天地を創造された御手をもって、今も働いておられますが(5節以下、9節)、それはヨブにとって、理解不可能なものになっています。10節は、エリファズの語った言葉(5章9節)を繰り返したものですが、エリファズは神の創造の御業をたたえる表現として、「測り難い」といったものを、ヨブは神の御心を理解することは出来ないと、全く否定的に語っているようです。

 それは、5節以下9節まで神の創造の御業を告げるヘブライ語の動詞五つが分詞形で綴られ、10節の「成し遂げる」(オーセ)、「不思議(に見える)」(ニフラーオート)の二つの分詞形と合わせて七つの分詞を連ねることで、神の創造の意図が、全く測り難い(エーン・ケーヘル:cannot understand)ものであるということを示しているのです。

 「神がそばを通られてもわたしは気づかず、過ぎ行かれてもそれと悟らない」(11節)というのは、かつて信頼を寄せていた神が、全く理解することの出来ない苦しみを与える敵となっておられるからです。

 そして、自分の無実を神に訴えたいと思っても、神は知恵に満ちておられ、自分の髪の毛一筋までもご存知の神に何を言えばよいのか分らないし(14,15節、ルカ12章7節参照)、むしろ、自分には殆ど自覚のない髪の毛一筋ほどのことで、これほどまでにひどく傷つけられています(17節)。

 「理由もなくわたしに傷を加えられる」(17節)という言葉は、サタンの「利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)という言葉、そして、神の「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとした」(2章3節)という言葉に、「理由もなく」(ヒンナム)という同じ言葉でつながっています。

 また、「無垢なのに、曲った者とされる」(21節)、「無垢かどうかすら、もうわたしは知らない」(22節)、「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」(23節)と、「無垢」(ターム)という言葉を連ねていますが、これは、ヨブ記のテーマであり、神はヨブが誰よりも無垢な正しい人物であることを認めていました(1章8節、2章3節)。 

 神は、このように悩み苦しむヨブを、今どのように見ておられるのでしょうか。どうすれば、神はヨブと同じテーブルにつくことが出来るのでしょう。今の状況を乗り越えるために、話し合うことが出来るようになるのでしょうか。もしかすると、神御自身がヨブを求めて、彼にこのように激しく求めさせておられるのでしょうか。

 それだからでしょうか。ヨブは、こうした思いの中から、冒頭の言葉(32節)のとおり、「あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」と、同じテーブルにつき、互いに論じ合うことが出来るようになることを願います。

 続いて、「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」(33節)と語ります。相手は人ではなく、神です。対等に語り合える立場ではありません。だから、同じ裁きの座についた神と自分の間に立って執り成し、調停、仲裁してくれる者を求めているのです。

 そして、「わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら」(34節)と、その調停、仲裁が功を奏することを望み、それによって、「恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない」(35節)と神に訴えることが出来ると告げます。

 ヨブはこの時、そのような場が設けられ、そのような調停者、仲裁者を見出すことが出来、そして、その仲裁が功を奏すると、本気で考えていたかどうか、そのような者の存在を信じていたかどうかといえば、それは、全く疑わしいものです。むしろ、そんなことはないけれども、そうだったらよいのにと、叶わぬ夢を見ていたのではないでしょうか。

 先に「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」(7章21節)と語り、義なる神は、罪を赦すお方であり、悪を取り除くお方ではないのかという考えを示していました。今受けている苦難によって、自分の罪の償いは終わったのではないか、というような思いが込められた発言です。

 今ここに示されたヨブの願望は、神と人との仲裁者、仲保者としての主イエス・キリストの出現を指し示す、預言的な役割を果たしています(ローマ8章34,35節、第一テモテ2章5節など)。主なる神は、世の罪を取り除く神の小羊として、独り子イエスを世に遣わされました(ヨハネ1章29節)。世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです(同3章17節)。

 ヨブが主イエスと出会ったとき、主イエスが願いの通り、ヨブの上から杖を取ってご自分の上に置き、その苦しみをすべて取り除いてくださったことを知り、そして、自分が神の子どもとして取り扱われているのを見出すでしょう(34,35節参照)。それは神ご自身が、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです(第一テモテ2章4節)。

 「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなる者とし、これに心を向けられるのか」(7章17節)といって、自分はそのようなものではないと語っていたヨブは、そのとき、「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは」(詩編144編3節)と、驚くべき恵みを讃えることでしょう。

 「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる天において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ書4章14,15節)。

 主よ、あなたの御名はほむべきかな。ヨブは苦しみの中で、赦しを願い、仲裁者を求めました。主は、御子イエスを仲保者として世に遣わされ、その死によって、罪の赦し、救いの恵みをお与えくださいました。ヨブの願いは、神の御心を先取りしたかたちでした。主イエスによる慰めと平和がすべての民の上に豊かにありますように。 アーメン