「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。」 ヨブ記6章15節

 エリファズが語った言葉(4,5章)を聞いたヨブは、しかし、そこに慰めを見いだすことが出来ませんでした。それは、エリファズの言葉が理解出来なかったからではありません。実行不可能な言葉だったからでもありません。また、ヨブが考えつきもしないような突飛なことだったからでもありません。

 むしろ、ヨブはエリファズの言葉を正確に理解していることでしょう。実行することも出来ると思います。そしてその考えは、エリファズが最初に語ったとおり、かつてはヨブ自身が持っていたもの、他の人を慰め励ますときに、ヨブ自身が語ってきたことだったのです(4章3,4節)。

 それにも拘わらず、ヨブが混乱しているのは、これまで神を信頼し、神にすべてを委ねて歩んできた自分を、神御自身が苦しめ、この罠から逃れさせてくださらないと感じているからです。

 最初は、すべての持ち物を失っても、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえよ」(1章21節)と、そう信仰を表明することが最善だと信じていたのです。そして、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2章10節)と、妻に語っていました。

 エリファズの「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(5章8節)という言葉に対し、「わたしの苦悩を秤にかけ、わたしを滅ぼそうとするものをすべて天秤に乗せるなら、今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ」(2,3節)と、その苦悩の深さを示します。

 なぜかといえば、それは、「全能者の矢に射抜かれ、わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた」(4節)ということで、自分の思いを訴え、問題を任せたいと願う神御自身が、自分の敵となって、その苦しみを与えているからだというのです。

 そこで、エリファズの言葉について、「味のない物」(6節)で、食べられないと言い、さらに、「わたしのパンが汚れたもののようになれば」(7節)と、人々が自分の皮膚病を汚れたものとして神に呪われたかの如くに見ているけれども、ヨブにとってエリファズの語る言葉こそが汚れたパンのようで、それに触れたくもないと言っています。

 「(わたしの)魂」(ネフェシュ)には、「命、息」という意味のほかに、「喉、食欲、願望」という意味もあります。岩波訳は「喉」と訳しています。文脈から、「食欲」と訳すのも、趣があるように思います。

 3章20節に「悩み嘆く者」という言葉がありますが、直訳は、「魂が苦い者」です。「苦い」は複数形で、自分に幾重にも苦難が襲いかかって来ていることを、そのように苦味として表現しているわけです。

 実は、6章の中に「魂」という言葉がもう一度用いられています。それは、11節の「忍耐しなければならない」というところです。原文は、「わたしの魂を長くする」という言葉遣いになっています。苦しみの中で長く生きること、あるいは、数々の苦味を長く味わうということで、耐え忍ぶという訳語になっているわけです。

 「そうすればどんな終わりが待っているのか」(11節)というように、ヨブには、これから先、自分を待ち受けているものの見通しが立ちません。それを楽しみ待つような力も、自分には残っていません。

 そして、「わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった」(13節)と、かつて、自分は神にその助け、力を頂いて来たけれども、今や、全く見捨てられてしまったというのです。

 そこで、「絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」と言います。「忠実」(ヘセド)は、「善、誠実、慈しみ」という意味の言葉です。神に見捨てられたヨブは、友の友情に期待したのです。しかし、それは裏切られました。

 冒頭の、「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように」(15節)という言葉が、その思いをよく表わしています。パレスティナでは、雨期となる冬の始めと終わりに雨が少し降って、そのとき川に大量の水が流れますが、乾期の夏には川が干上がってしまいます。水が流れなくなった川のことを「ワーディー」と言います。

 ヨブは、見舞いにやって来た三人の友らが、自分の苦しみを受け止め、慰め、励ましてくれると期待しました。ところが、エリファズの言葉を聞いて、その期待は空しく裏切られてしまったということです(20,26節参照)。

 「絶望した者の言うことを風に過ぎないと思うのか」(26節)といって、自分の言葉をちゃんと聞いてほしいと訴えます。そして、「どうかわたしに顔を向けてくれ。その顔に偽りは言わない」(28節)というところに、自分の現実をありのままに見て欲しい、ヨブの立場になって考えて欲しいと、理解を求めるヨブの本心が示されています。

 今ヨブが一番望んでいるのは、神が死を与えてくれることです(8,9節)。死こそ、自分をこの苦しみから解放する、最も現実的なものだと思っているのです。ということは、ヨブが今、友のこととして語っている、「水の流れが去った後の川床」というのは、実は、彼の財産を奪い、家族を奪い去り、そして彼を苦しめ続けている神に対する婉曲な言い回しのようですね。

 なぜ苦しまなければならないのか、その理由も示されず、いつまでこの苦しみが続くのか、その出口も見えない。そんな中で、なお沈黙しておられる神に、ヨブは失望しているのではないでしょうか。それゆえに、もはや神には期待しない、二度と裏切られたくない、そのために人生を終りにするんだと考えているのでしょう。

 苦しみから解放されず、それではと願った死をさえも与えられなくて苦しみ続けるという袋小路に、神はヨブを追い込もうとしておられるのでしょうか。失望の果て、自ら命を絶つ罪を犯させようと考えておられるのでしょうか。勿論、そうではないでしょう。

 むしろ改めて、本当の命の拠り所は何か、水の流れの源はどなたなのかということを、ヨブにもう一度教えようとしておられるのではないでしょうか。ヨブが願っている死よりも、さらにリアリティーのある生ける神の力を知らせるためです。だから今、神は黙してヨブに寄り添い、ヨブの心の内にある思いをすべて、ありのまま吐き出させておられるのです。

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブライ書10章19~22節)

 インマヌエルの主よ、苦しみの中にあるすべての人に、慰めと平安がありますように。希望が与えられ、苦しみから解放されますように。命が守られますように。キリストと結ばれて、その親しい交わりの内に恵みと平和が豊かに与えられますように。 アーメン