「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」 士師記19章30節
 
 「エフライム山地の奥に一人のレビ人が滞在していた」(1節)とあります。エフライムには、シケム、ゲゼル、キブツァイム、ベト・ホロンというレビ人の町があると、ヨシュア記21章20~22節に記されています。ここで、「一人のレビ人が滞在していた」という表現は、その理由は不明ですが、彼がレビ人の町を出て、エフライム山地の奥に、他のレビ人から離れて一人で生活していたということになるでしょう。
 
 そして、ユダのベツレヘムから一人の女性を側女として迎えたと記されます(1節)。レビ人は側女を持ってはならないというような律法はありませんが、神に仕えるために身を清めなければならない者として(民数記8章5節以下)、それはいかがなものでしょうか。
 
 ところが、その側女がレビ人のもとから逃げ出し、実家に帰ってしまいます。理由は記されていません。彼は、4ヶ月たって側女を迎えに出向きます(2,3節)。義父は彼の訪問を喜び、帰ろうとするのを何度も引き留めます(4節以下)。それは、婿との交わりを楽しんでいるというより、娘のことを案じてのことだったのではないかと思います。
 
 ようやく5日目の夕暮れ近くに帰途につきました(9,10節)。同行の若者が、エルサレムで一泊してはどうかと勧めるのに(11節)、「異国人の町には入るまい」とレビ人は答え、ベニヤミン領のギブアまで足を伸ばすことにします(12節以下)。ギブアは、レビ族の中でも祭司たちの住む町となったところです(ヨシュア記21章18節)。
 
 ところが、なんとギブアには、「彼らを家に迎えて留めてくれる者はいなかった」(15節)のです。仕方なく彼らが広場で夜を過ごすようにしていると、一人の老人が畑仕事を終えて通りかかり、彼らに声をかけ(16,17節)、家に迎えてくれました(20,21節)。
 
 そこに事件が起こります。町のならず者が家を囲み、「お前の家に来た男を出せ」と要求します(22節)。「我々はその男を知りたい」というのは、男色をするということでしょう。主人は、それを思いとどまらせるつもりで、自分の処女の娘と、旅人の側女を出すという提案をしますが(24節)、彼らは聞く耳を貸そうとしません(25節)。
 
 そこで、レビ人が側女を押し出すと、彼らは一晩中もてあそびます(25節)。朝になって、解放された女がようやく老人の家までたどり着きますが、そこに倒れて息絶えます(26~28節)。
 
 レビ人は、側女の遺体をロバに乗せてエフライムの家に帰り、それを12の部分に切り離して、イスラエル全土に送りつけます(28,29節)。冒頭の言葉(30節)は、それを見た人々の反応です。
 
 これは、神の選びの民イスラエルに本当にあったことでしょうか。神に仕えるレビ人が、危機を逃れるために側女を与えたことは、神の前に問題にならないのでしょうか。神に仕え、律法の言葉を人々に教える使命を持ったレビ人、そして、祭司たちが住む町ギブアの人々のこの非道な振る舞いは、どう考えればよいのでしょうか。

 そしてまた、レビ人が側女の遺体を12に切り離して、イスラエル全土に送りつけたというのには、どんな目的があったのでしょうか。これらのことについて、本当に「このことを心に留め、よく考えて語る」必要があります。
 
 今日の箇所には、神の言葉がありません。祈りもありません。それが一番の問題でしょう。詩編119編9節に、「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉通りに道を保つことです」(詩篇119編9節)と言われるとおり、神の御言葉を聞くことです。その導きに従うことです。レビ人、祭司たちがその務めを果たさなければなりません。
 
 今日、我が国でも、性をもてあそび、命を粗末に扱う事件があとを絶ちません。キリスト教会に重い課題が委ねられています。御言葉と祈りをもって、その責任を果たせるようになりたいと思います。

 主よ、私たちの国に、町に、御言葉の光を与えて下さい。皆の心が光で照らされ、希望、愛、喜びで命が輝きますように。キリストの教会が、その使命を果たすことが出来ますように。私たちの上からの知恵と力を授けて下さい。真理の御霊の助けが常に豊かにありますように。 アーメン