「新しい神々を選び取ったので、城門に戦いが迫ったが、イスラエルの四万人の中に、盾も、槍も見えたであろうか。」 士師記5章8節

 1節に、「デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った」と記されていますが、5節の「わたしデボラは」などといった表現から、これは、「デボラの歌」と言われています。
 
 この歌は、20年にわたってイスラエルを苦しめたカナンの王ヤビンを滅ぼすことが出来て、勝利をお与え下さった神を賛美するものです。これはちょうど、解放され、意気揚々と国を脱出したイスラエルの民を追いかけて来たエジプトの軍勢を、神が葦の海の奇跡をもって打ち破られたとき(出エジプト記14章)、モーセや女預言者ミリアムが主を賛美したのと同様です(同15章)。
 
 4,5節で「主よ、あなたがセイルを出で立ち、エドムの野から進み行かれるとき、地は震え、天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた。山々は、シナイにいます神、主の御前に、イスラエルの神、主の御前に溶け去った」というのは、まさにエジプトからイスラエルの民を解放された神が、今ここに立ち上がって、デボラとバラクに勝利をお与え下さったと歌っているわけです。
 
 「アナトの子シャムガルの時代」に、「隊商は絶え、旅する者は脇道を行き、村々は絶えた」(6,7節)というのは、シャムガルが士師として働いていた時代というよりも、その後の時代、イスラエルが再び神に背いたためにカナンの王ヤビンが鉄の戦車を用いてイスラエルを苦しめたので(4章1節以下)、往来から人通りがなくなり、畑を耕す者もいなくなったということでしょう。そんなときにデボラが士師とされ、立ち上がったのです。
 
 冒頭の言葉(8節)で「新しい神々を選び取ったので、城門に戦いが迫ったが」とあるのは、ヒゼキヤの代にアッシリア軍がイスラエルに攻め込み、エルサレムの陥落も時間の問題となったという状況を思い浮かべます(列王記下18章13節以下)。
 
 「イスラエルの四万人の中に、盾も、槍も見えたであろうか」というのは、鉄の戦車900両を押し立ててやってくるシセラ軍に対し、兵士は4万人いるものの、なんとその手に槍も盾もない、丸腰の状態だということでしょう。これでは、初めから戦いになりません。
 
 にもかかわらず、「奮い立て、奮い立て、デボラよ、奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ。立ち上がれ、バラクよ、敵をとりこにせよ、アビノアムの子よ」と言われます(12節)。到底、ほめ歌を歌えるような心境にはなれそうもありませんし、そんな状態で奮い立ってシセラ軍に対抗しようというのは、およそ無謀としか言えないようなことでしょう。
 
 けれども、神はイスラエルのために特別な仕掛けを用意しておられたのです。20,21節に、「もろもろの星は天から戦いに加わり、その軌道から、シセラと戦った。キション川は彼らを押し流した、太古の川、キション川が」と記されています。古代イスラエルでは、星が雨を造ると信じられていました。
 
 そして、タボル山に集結したイスラエル軍に対し、シセラ軍はキション川に集結しますが(4章6,7節)、大雨でキション川が溢れ、鉄の戦車も押し流されて、全く使い物にならなかったということでしょう。4章15節の「主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた」というのは、川の氾濫が原因だったというわけです。
 
 イスラエルの兵士たちはほとんど武器を持っていませんでしたが、万軍の主が彼らのために、彼らと共に戦って下さり、勝利を収めさせられました。デボラとバラクに「奮い立て」と言われたのは、その主を信頼せよ、という表現だったわけです。信じる者の幸いを、ここにも見ることが出来ました。
 
 主よ、私たちの信仰の目が開かれ、どのような状況下でも、共におられ、私たちのために戦って下さるあなたに目を留めることが出来ますように。信仰の耳が開かれ、「奮い立て」と言われる主の御声をさやかに聞くことが出来ますように。そして、主の御業を拝して、心から御名を褒め称えさせて下さい。 アーメン