「主はヨシュアに言われた。『恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。』」 ヨシュア記8章1節

 前章に続き、再びアイの町を攻撃することになりますが、今回は、主の命令に従って行動を起こします。主は、冒頭の言葉(1節)のとおり、「全軍隊を引き連れて攻め上れ」と言われます。そこで、「ヨシュアは、三万の勇士をえりすぐって」(3節)送り出します。
 
 先の攻撃では、斥候に行った者たちは、全軍が出るまでもなく、二、三千人も行けば十分、とヨシュアに進言していました(7章3節)。けれどもそれは、主の命令を受けてということではありませんでした。そして、その判断が甘過ぎたということ、そして、この戦いに主の助けが必要であることを、徹底的に思い知らされたわけです。
 
 三万の勇士のうち、五千を伏兵として町の西側に配置し(2,12節)、残りをヨシュアが率いてアイの町の北側に陣を張ります(13節)。伏兵に気づかなかったアイの王は、ヨシュア軍を迎え撃つため、町を出ます(14節)。ヨシュア軍がそれを見て退却すると(15節)、追撃するため、町の中にいた全兵士がおびき出されます(16節)。前の戦いと同じ展開になったのを、イスラエルの策略と見抜くことが出来なかったためです。
 
 17節には、「イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった」と記されています。アイの北西2kmほどのところにベテルの町があり、そこからの援軍があったということでしょう。あるいは、ベテルとは「神の家」という意味ですから(創世記28章19節)、ベテルの町ではなく、アイの町にあった神殿のことを指しているという学者もいます。
 
 当時の神殿は、町を守る最後の要塞となるよう、堅固な城壁で囲まれていました。神殿を警護する兵士もイスラエル追撃に参加したということになれば、先の勝利に味を占めたアイの王の自信過剰振りを如実に表していると見ることも出来ます。
 
 アイとベテルの全軍がおびき出されたところで、主がヨシュアに、伏兵に合図するようにと言われます(18節)。伏兵は合図を見て町に攻め込み、そこを占領した後、火を放ちます(19節)。
 
 その火を合図に、今度はヨシュア軍が退却をやめ、追撃してきたアイの兵士に打ちかかり(21節)、町を出た伏兵も後ろから挟み撃ちにします(22節)。アイの兵士全員が戦死し、王は生け捕りにされました(23節)。
 
 町に残っていた全住民も一人残らず剣にかけられ、総数1万2千が殺されたと報告されます(25節)。「男女合わせて」ということですから、男子が六千、子どもも年寄も含まれていることを考えると、その半数の三千が兵士でしょう。それに対して、神の助けを得たイスラエル軍は3万もの兵が必要だったのかというところですが、今回の戦いは、兵の数ではなく、すべての民が神の命令に従うことを求められたわけです。
 
 この戦いにおけるヨシュアの役割は、「アイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった」(26節)ということでした。これは、かつてアマレク軍が戦いを挑んできたときに、モーセが手を上げていたことを思い起こさせます(出エジプト記17章8節以下、11,12節)。

 つまり、ヨシュアはモーセの後継者として、その役割を担ったわけです。ということは、今回の勝利は、主が彼らのために戦って下さったために得られたものであるということを、ここに示しています。
 
 今日のこの記事について、神の名による戦争を肯定するものとして読むことは出来ません。そうではなく、私たちの内外に働きかけて、御言葉に従うことを妨げ、神に従わせまいとする様々な力に対して、まさに御言葉に聴き従うことを通して、神の助けを求めて手を挙げて祈ることにより、完全に勝利すべきであるという神の教えとして、心に銘じましょう。

 主よ、私たちを聖霊の宮としてその内に住み、絶えず共にいて下さることを感謝します。あなたこそ私を守る堅固な岩であり、砦です。御力に依り頼みます。御教えに聴き従います。どうか私の耳を開いて下さい。絶えず御顔を仰がせて下さい。御足跡に従うことが出来ますように。 アーメン