「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日の内に埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」 申命記21章23節

 冒頭の言葉(23節)の直前、22節に「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば」と記されています。ところで、イスラエルには、人を木にかけて処刑するという規則はありません。
 
 レビ記20章に「死刑に関する規定」がありますが、死罪にあたるのは、子をモレク神にささげたり(同2節以下)、口寄せ・霊媒をするなど(同6,27節)、神ならぬものに依り頼むこと、また父母を呪うこと(同9節)、そして、姦淫することです(同10節以下)。
 
 死刑の方法として、同2節と同27節、すなわち初めと終わりに、「石で打ち殺す」と言われています。すなわち、死罪にあたる罪を犯した者は、石で打ち殺されるということです。ただ、祭司の娘が姦淫の罪を犯したときには、「焼き殺さねばならない」と、同21章9節に記されています。
 
 「木にかけられた死体」という言葉は、処刑後に木につるして晒しものにする表現と読めます。しかし、どのような場合、処刑した後、死体を木にかけるのかを定めた規則というのも見当たりません。
 
 創世記40章でエジプトのファラオが料理役の長を木にかけたこと、ヨシュア記8章でヨシュアがアイの王を木にかけ、同10章で、同じくヨシュアがエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの5人の王を木にかけたこと、サムエル記下4章でサウルの子イシュ・ボシェトを殺した従者二人を木につるしたこと、それから、エステル記7章でペルシャのクセルクセス王が大臣のハマンを木にかけたことが、旧約聖書中で木にかけるという実例のすべてです。
 
 このように実践例があまり多くないのは、刑の惨たらしさに原因があるのではないかと思われます。また、冒頭の言葉(23節)の中に、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という一句があります。木にかけることが、人々に対する見せしめというだけでなく、神の呪いを受けることだというのです。死刑に処せられた後、神に呪われるということは、死んだ後、裁かれて地獄に落とされることと言えばよいでしょうか。
 
 ヘブライ書9章27節に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」と言われています。死後、祝福の天国か呪いの地獄か、神の裁きが下るわけです。勿論、祝福を受けて天国に行きたいですよね。
 
 ところで、私たちは祝福を受けられる資格を有しているでしょうか。胸に手を当てて考えるまでもなく、私は祝福を受けたいけれども、祝福が受けられるような生活をしてきたと、神の前に胸を張ることが出来ません。むしろ、呪いを覚悟しなければならないような歩みをしていると言わざるを得ないのです。
 
 そのような私を救い、祝福を与えるために主イエスが来て下さいました。ガラテヤ書3章13節に、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と書いてあるとおりです。
 
 罪のない神の御子キリストが木にかけられたのは、御自分が神に呪われて、私たち人類を罪の呪いから解放するためでした。イエス・キリストの命によって私たちは贖い出され、もはや呪いを受けなくてもよいようにして頂いたのです。
 
 同14節には、「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるためでした」とあります。律法を行い得ないという点で、ユダヤ人も異邦人もありません。皆同じです。主が律法の呪いを引き受けられたということは、すべての民に救いが及ぼされたということです。
 
 ということは、主イエスの受難によって私たちを罪の呪いから贖い出し、救いの恵みに与らせるために、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という掟を予めお与え下さっていたわけです。

 主よ、私たちは、生まれながら神の怒りを受けるべき者でしたが、憐れみ豊かな神は私たちをこの上なく愛され、その愛によって、罪に死んでいた私をキリストと共に活かし、共に復活させ、共に天の王座に就かせて下さいます。これは、実に一方的な神の恵みです。その感謝と喜びを一人でも多くの方々と分かち合わせて下さい。 アーメン