「八日目には、聖なる集まりを開く。いかなる仕事もしてはならない。」 民数記29章35節
 
 29章には、年度後半の祝日の献げ物が規定されています。
 
 まず、7月1日に聖なる集会を開きます。それを「角笛を吹き鳴らす日」としています(1節)。ユダヤ教の伝統では、この日を「新年の日」と呼ぶそうです。現在は、春を新年としていますが、春と秋のいずれを新年とするかで綱引きがあったと聞いたことがあります。7月1日を「新年の日」と呼ぶのは、その名残ということでしょう。
 
 10日にも聖なる集会を開きます(7節)。ここには、この祝日の名が記されていませんが、レビ記23章27節に、「贖罪日」と記されています。同16章にこの贖罪日の詳細な規定があり、31節に、「これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である」と記されています。
 
 年に一度、この日に大祭司は至聖所に入って罪の贖いの儀式を行います(出エジプト記30章10節、レビ記16章3節以下、34節)。この日、民は「苦行」(レビ記16章29~31節、23章27,29節)、即ち断食を行います。
 
 贖いの儀式の後、大祭司は生きている雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪を雄山羊の頭に移して荒れ野に追いやります(レビ記16章20~22節)。罪の身代わりとされることを英語でスケープゴート(scapegoat)と言いますが、それは、ここから来ています。
 
 「贖罪」(キプリーム)という言葉は、「覆う」(キッペル)という言葉から派生したものです。「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」と詩編32編1節に詠われています。雄牛と雄山羊の血で神の目から罪が覆われ、それによって赦しが与えられるということです。
 
 最後の晩餐の席上、主イエスが杯を取って、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われましたが(マルコ福音書14章24節)、主イエスの血によって私たちの罪が覆われ、神と新しい契約が結ばれたわけです。
 
 15日にも、聖なる集会を開き、七日間祝います(12節)。これは、「仮庵祭」です(レビ記23章33節)。13節以下に、8日間にわたって祝われる祭りにささげられる献げ物のリストが詳細に記されています。三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)の中で、仮庵祭が最も盛大に祝われました。それは、いけにえの量にも現れています。
 
 過越祭 牛14頭 羊7匹  小羊49匹  山羊7匹
 七週祭 牛2頭  羊1匹  小羊7匹   山羊1匹
 仮庵祭 牛71頭 羊15匹 小羊105匹 山羊8匹
 
 ユダヤ教の伝統では、「仮庵祭にエルサレム巡礼をしなかった者は、喜びを知らない者だ」という言葉があるそうです。これは、ぶどうの収穫祭ですが、約束の地に入ってぶどうなど豊かな農作物の収穫にあずかったときに、エジプトの奴隷生活から解放され、荒れ野を40年旅したときのことを忘れないようにするためであり(レビ記23章43節)、そのときの苦しみと比べて、約束の地での生活がいかに幸いなものであるかを知って、神に感謝するのです。
 
 ヨハネ福音書7章37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」という言葉があります。これは仮庵祭の最終日のことです。最大の祝祭日の最も盛大な祝日が終わりの日、即ち8日目のことというわけです。冒頭の言葉(35節)では、この日、「聖なる集まりを開く」とあり、そこで神を礼拝します。
 
 そして、前日までと比べると全く控えめな量のいけにえをささげます(36節)。それを「盛大」と表現するのは、人が神の御前に静まるときに、神の御声がさやかに聞こえ、御業を見させていただくことが出来る。それこそが、神の民の最も大きな喜びである、ということではないでしょうか。
 
 「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と主イエスが言われました。命の御言葉を受け、御霊の恵みに与り、主の御業のために働く者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたから離れて、私たちが実のある人生を送ることが出来ません。あなたこそ、恵みの源であり、また希望と平安の源であられるからです。私たちの感謝のしるしとして、賛美のいけにえ、即ち唇の実を絶えずあなたにおささげします。私たちを主に喜ばれるまことの礼拝者として下さい。 アーメン