「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」 ヨブ記3章20節

 サタンの二度目の攻撃に対して、唇をもって罪を犯すことをしなかったヨブではありますが(2章10節)、次第に心中穏やかならざる事態となって来ました。これまでのように、敬虔さを保って歩むべきだと考える思いと、突然襲って来た苦難を訝しむ心がせめぎ合います。

 そこに、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルが訪ねて来て、それと見分けられないほどのヨブの姿に嘆きの声を上げ(同11,12節)、七日七晩共に地面に座っていて、その激しい苦痛を見て、話しかけることも出来ませんでした(同13節)。確かにこんなとき、人間の言葉は何の助けにもなりません。

 やがて、ヨブが口を開きます。最初に出て来たのは、「わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」(3節)という言葉でした。誰に向けた言葉とも言えない、独白というしかないような言葉です。しかもそれは呪いの言葉で、自分の生まれた日を呪い、みごもった夜を呪います。

 この言葉を展開するかたちで、生まれた日を呪う言葉を4,5節に「その日は闇となれ、神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ、昼の暗い影に脅かされよ」と言います。これは、創世記1章1~5節の第一の創造の記事を逆転させるような言葉です。

 「闇となれ」(イェヒー・ホーシェフ)は、「光あれ」(イェヒー・オール:創世記1章3節)の「光」(オール)を「闇」(ホーシェフ)と言い換えた用語です。生まれた日は、初めてこの世の光を見た日ですが、それが闇に覆われていればよかった、光を見る日がなければよかったというのです。

 また、みごもった夜を呪う言葉が、6節以下に展開されますが、まず、「闇がその夜をとらえ、その夜は年の日々に加えられず、月の一日に数えられることのないように」(6節)と言います。光が創造されて、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1章5節)となりました。「闇が夜をとらえる」とは、朝の光を迎えないということでしょう。

 次に、「その夜ははらむことなく、喜びの声も上がるな」(7節)といいます。「夜」(6節)と「みごもるべき腹の戸」(10節)に並行関係を見て、夜がはらまなければ、つまり、光を産み出すことがなければ、自分が生み出されることはなかったということでしょう。

 ヨブは言葉を継いで、 「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに」(11~13節)と言います。

 「母の胎にいるうちに」は、「子宮から」(メー・レヘム)という言葉です。岩波訳は、「なぜ、私は死んで子宮を離れなかったのか」としています。次の句が「生まれてすぐに息絶えなかったのか」という言葉なので、「母の胎から出て死ななかったのか」ではなく、「母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と訳したわけです。

 そのように死産であれば、また、生まれてすぐに息絶えていれば、さらに、抱きとめる者がなく、乳を含ませられることがなければ(12節)、「今は黙して伏し、憩いを得て眠りについたのに」(13節)、即ち、今のこの苦しみに遭わず、永遠の憩いの中にいれたのにということです。

 17節以下、死によって、疲れた者が憩いを得、捕らわれ人も安らぎ、奴隷も自由になるいうのは、皮肉たっぷりです。特に、19節の「主人」には「アドナイ」という言葉が用いられています。これは、ユダヤの人々が主なる神の名を呼ぶときの表現です。神のことを、奴隷を追い使って苦しめるひどい主人のように思い始めているのでしょうか。

 そして、冒頭の言葉(20節)のとおり、「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか」と、姿を現さない神に問う言葉が飛び出して来ました。なぜ神は、この状態を放置しておられるのか。なぜ自分をこの苦しみに閉じ込めておられるのか。死なせてくださればよいのに、というのです。

 しかし、願っても死を賜りません。「地に埋もれた宝にもまさって、死を探し求めているのに」(21節)です。私たちにとって、最も価の高い宝と言えば、それは命でしょう。「命どぅ宝」という言葉があります。しかし、ヨブにとって、今一番願わしいのは、命にまさる「死」なのです。

 単純に神の最善を信じられなくなったヨブにとって、「行くべき道が隠されている者の前を、神はなお柵でふさがれる」(23節)というのは、自分や家族、全財産を守るために、周りを幾重にも廻らされていたはずの神の垣根が、今や自分を閉じ込め、行くべき道を覆い隠してしまう柵になっているという状況です。

 死によって憩いを得ると13,17節で語っていますが、しかし、彼の現実は、その死がかなわず、「静けさも、安らぎも失い、憩うことも出来ず、わたしはわななく」(26節)と、呻くようにその苦しみを吐露しています。

 25節に、「恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった」とあります。自分に襲いかかった不幸を、「恐れていたこと」、「危惧していたこと」と言い、以前から恐れや不安を抱いていたことを示しているのです。

 何故ヨブがそのような不安を抱いていたのか、勿論よく分りません。しかし、これまでの彼の敬虔さの背後に、恐れや不安があったということです。恐れや不安を覆い隠す敬虔さというか、経験にしていれば、恐れや不安が実現することはないと考えていたのでしょうか。

 彼が恐れ、危惧していた不幸に見舞われ、そして、その苦しみを癒してくださらないのなら、どうして、なおも神に信頼し、敬い続けることが出来るでしょうか。彼の苦悩は、深まるばかりです。いつまで苦しまなければならないのでしょうか。誰が、どのようにして、この苦しみから救ってくれるのでしょうか。今や、謎だらけです。

 私たちは、私たちの主イエスが、彼をこの苦しみから救ってくださると信じています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)と言われています。

 主イエスは、罪を犯されたことのない、清いお方ですが、私たち罪人の身代わりに十字架に死なれました(ガラテヤ書1章4節、第一ペトロ書2章24節)。その際、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ15章34,37節)と叫ばれました。

 主イエスは、神を「アッバ、父よ」(マルコ14章36節)と呼んでおられました。しかし、ここでは「エロイ(わが神)」と呼ばれます。神を「父」(アッバ)と呼べなくなっているわけです。そうして、見捨てられるはずのない神の御子が、私たちに替わって十字架にかかり、罪の呪いを受けて、死なれました。

 主イエスの死によって、私たちは罪の呪いから解放され、神の子として永遠の命に生きることが許されたのです。主の恵みに感謝し、救いの喜びを胸に、日々希望と平安をもって歩みたいと思います。 

 主よ、今、苦しみの中におられるすべての人々に、主の慰めと平安が豊かにありますように。癒しと助け、勇気と希望をお与えください。あなたの御声を聞くことが出来ますように。キリストによる平和と喜びが常に豊かにありますように。 アーメン