「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」 出エジプト記33章3節

 32章34節に、「しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く」と主がモーセに語られ、そして、冒頭の言葉(3節)が告げられています。口では、「主が語られたことをすべて行い、守ります」(24章7節)と言いながら、実際には教えに背いて、神の像を造り、戯れていたイスラエルの民に(32章参照)、神が見切りをつけられたというところでしょうか。
 
 だから、御使いが先立って導くと言われ、しかしご自分はイスラエルの民とご一緒されない、と告げられたのでしょう。そして、それは「途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである」という理由も、よく分かります。イスラエルの民は、この後も、モーセに不平を言い、神を試すようなことを繰り返すからです。
 
 ただしかし、人が心に思い計ることは幼いときから良いものでないということは、先刻ご承知のはずです(創世記8章21節)。「わたしのために聖なる所を造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(25章8節)という決断をなさったとき、それはイスラエルの民が御言葉に従うと告白したからではありましょうが、イスラエルの民の頑なさ、弱さは織り込み済みではなかったのでしょうか。
 
 そもそも、神がイスラエルの民をエジプトから脱出させるためにモーセをお遣わしになるとき、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(3章12節)と言われ、また、「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(4章12節)と言われていました。それなのに、今ここでなぜ、「あなたの間にあって上ることはしない」と仰られるのでしょうか。
 
 それは、神がモーセを試そうとされたことで、本心からそう仰っておられたのではないのでしょう。この後で、「直ちに、身につけている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう」(5節)と言われています。この御言葉に民が従うかどうかを見ることと、外見の飾りを取り除くことを、悔い改めのしるしとしよう、ということでしょう。
 
 また、「もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください」(13節)とモーセが求めると、主なる神は、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」(14節)と答えておられます。
 
 考えてみれば、神がご一緒されないと言われたときに、モーセは、それならば自分の使命も終わったということも出来たでしょう。神様から愛想つかされるような民のお守りはご免と、逃げ出すことも出来たでしょう。しかし、モーセはそうしませんでした。
 
 神がご一緒であれば、頑なな民との間に何度も騒動がおき、しんどい目をするから、神に離れていただいておこうか、御使いが先立って道を教えるなら、それでもよいと考えることも出来たでしょう。しかし、モーセはそれもしませんでした。
 
 モーセは、同胞を見限ることが出来ないと考えていたと思います。
 
 そして、それ以上に、神がご一緒でなければ、何が出来ても空しい、否、何も出来ないと考えていたのです。だから、「もし、あなたご自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないで下さい。いったい何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか」(15,16節)と神に語っているわけです。
 
 主イエスも、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と仰っているとおりです(ヨハネ福音書15章4節)。

 主よ、いつも私たちと共にいて下さい。ご一緒下さっていることを教えて下さい。どうか、あなたの栄光をお示し下さい。御言葉に聞き従う私たちになれますように。主の御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン