「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」 創世記48章14節

 ヤコブは、息子ヨセフの二人の子マナセとエフライムを自分の子としたいと願い(5節)、そして、二人を祝福しようと言います(9節)。ヨセフは父の前にひれ伏し(12節)、二人の子をヤコブの前に進ませます(13節)。
 
 するとヤコブは、右手をエフライムの頭に、左手をマナセの頭に、両手を交差させて置きました(14節)。つまり、自分の右側にいるマナセに左手を、自分の左側にいるエフライムに右手を、自分の前で交差させるかたちで手を置いたのです。
 
 口語訳では、「ことさらそのように手を置いた」と訳出されており、不注意や気まぐれではなく、注意深く慎重に相手を選んで行われたことを示しています。
 
 イスラエルの伝統では、右手の祝福は長子に与えられるもので、遺産の配分において他の兄弟の2倍を受ける特権を有効にする祝福と言われています。ヨセフは、長男マナセが右手の祝福を受けるように右前に、次男エフライムを左前に進ませたのです。

 ところが、父ヤコブの右手が次男の頭に置かれたことに気づき、手を置く順序を間違えていると考えて、置き換えようとします(17節)。ところが、ヤコブはきっぱりと、「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている」と言い(19節)、弟エフライムを兄に勝って祝福しようと、神が選ばれたというわけです(19節以下)。
 
 なぜそうなのか、理由は説明されていませんし、ヨセフも父に対してそれ以上抗議をしていません。ここに、祝福というものは、人の考えに左右されない、神の自由な選びによって与えられるものということが語られているのです。そしてこの自由な選びは、神の憐れみに基づいています。
 
 祝福の言葉に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に祝福をお与えください」という言葉があります((15,16節)。ヤコブは勿論、祝福の祈りを空しい言葉だとは考えていません。ヤコブは父イサクを騙し、兄を出し抜いてこの祝福を受けました。父イサクの祝福を受けないで生きることは出来ないと考えていたわけです。

 生きていく上で、神の祝福は不可欠だという考えは間違っていませんが、手段を選ばないというやり方を神は喜ばれはしません。結局ヤコブは、兄エサウを恐れ、その前から逃げ出さなければなりませんでした。苦しみを味わい、後悔の日々を過ごしたでしょう。
 
 ところが、神はヤコブの罪を赦し、苦しみから救い出して下さったのです。ヤコブはここに、本当に大切なのは、祝福をお与え下さる神との交わりであることを知ったのです。特に、死んだと思っていたヨセフが生きていると知らされたとき、それこそおのが罪の結果と諦めていたのに、罪赦される喜びが湧き上がり、あらためて神の祝福の力を味わったのです。
 
 長子の受けるべき祝福が次男に与えられたというのは、新約の福音の光を通してみると、神の独り子イエス・キリストの受くべき分が、御子を信じる私たちに与えられたということを示しています。ヤコブは祝福をお与え下さる神を、「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ」と(15,16節)と呼んでいますが、これは、ヤコブが自ら知らずして主イエスを証しているようです。
 
 使徒ペトロは、「皆が躓いても私は躓かない、たとえ殺されても裏切りません」と豪語していましたが(マルコ14章29,31節)、3度も主イエスなど知らないと公言してしまいます(同66節以下)。しかるに、主イエスはペトロを十字架の死によって贖い、御自分の証人として用いるべく聖霊の力を注ぎ与え、使徒として立てられました。
 
 主は私たち一人一人にそれぞれ違った賜物を与え、違った仕方で主の祝福を体験し、主に従うように招かれています。「あなたは、わたしに従いなさい」と(ヨハネ福音書21章23節)。
 
 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちをお選びになりました。それは、私たちが出て行って実を結ぶ者となるため、その実が豊かに残るためであり、また、御名による祈りが聞き届けられるためでした。御名が崇められますように。御国が来ますように. アーメン