「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」 創世記41章39.40節

 ファラオ(エジプトの王)が不思議な夢を見ました(1節)。それは、川の中から、美しく肥えた雌牛が7頭上がって来た後、醜く、やせ細った雌牛が7頭出て来て、よく肥えた雌牛を食い尽くしたというものです(2節以下)。再び、同様の夢を見たファラオは(5節以下)、夢のことが気になり、エジプト中の魔術師、賢者など、夢解きの出来る学者たちを呼び寄せましたが、誰も納得の行く解釈をすることが出来ませんでした(8節)。
 
 そのとき、給仕役の長が2年前に牢で出会ったヨセフのことを思い出し、ファラオにそのことを告げます(9節以下)。そこでヨセフが牢を出され、ファラオの前で夢解きをすることになります(14節)。
 
 古代世界では、天体の運行やその他の自然法則などを研究して未来を予知することは、当時の科学の対象として、真剣に取り組まれました。それは、不安な人生に少しでも安全を確保したいという人間の深い願望の現われです。
 
 そうしたことは、現代においても見られます。一方では、きわめて現実的、合理的になり、学歴や資格取得などによって将来の安定した地位を獲得しようと考えています。入試で消耗することがないように、幼稚園から大学まで連なった有名私立学校への「お入学」に躍起になったりするのも、その流れの一つでしょう。
 
 反面、入試に際して神仏に合格祈願をし、仕事始めには安全祈願、そして商売繁盛、五穀豊穣、家内安全などのためのお参りを行います。車に交通安全のお守りを下げています。一般に販売されている雑誌で、星占い、運勢などを載せていないものは、一つもないといってよい程でしょう。神仏をどれほど真剣に信じているのか分かりませんが、少しでも自分の不安やストレスを解消し、安心して物事に打ち込めるようにしたいということでしょう。
 
 しかしながら、ヨセフは、「神がファラオの幸いについて告げられる」(16節)、「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです」(28節)と語ります。これは、人が時間を支配し、思うように安全を確保することは出来ないということであり、未来はすべて神様の手の中にあるということです。
 
 私たちは、今を精一杯生きるほかはないのです。そこで、いかに生きるべきかということが問題になります。ただ我武者羅に生きればよいわけではありません。死なないから生きているというような生き方は御免です。自分の生きるべき道があるはずだと考えるからです。
 
 「神などいない、神なんかいらない」と豪語する一方で、不安を解消するために迷信に走る、その両極の間を揺れ動いている、それが現代日本に生きる私たちの姿なのかもしれません。
 
 ヨセフは一貫して神中心の立場に立ち、ファラオに夢を見せ、自分にその解釈を与えて下さった神を信じて、ファラオの前でも大胆に語ります。およそ、奴隷であり、刑の執行を待つ囚人という最も弱い立場にいる者の振る舞いではありません。
 
 33節以下、夢の解き明かしに基づいて、具体的な計画を提案します。神の御言葉に応え、それに基づく計画に従って忠実に実行されることが必要なのです。計画が立たなければ、夢はいつまでも夢のままです。実行されなければ、計画は意味を持ちません。
 
 ヨセフの言葉に感心したファラオが、冒頭の言葉(39,40節)を語ります。この計画を忠実に実行出来る「聡明で知恵ある人物」(33節)は、確かにこのヨセフを置いてほかにいないことが、夢解きの事実で明らかにされています。そしてこのファラオの言葉は、最も低い身分にいたヨセフの立場を180度変え、王に継ぐ地位に立つものとします。

 兄たちに空井戸に投げ込まれ、奴隷としてエジプトに売られ、無実の罪で監獄に入れられて、ヨセフは次々と起こる問題に振り回され、命をさえ脅かされておりましたが、今ここで、彼に与えられていた夢が実現するため、世界が動き始めたのです。

 主よ、人の心には様々な計画があります。幸せになりたいと色々画策します。しかしながら、世界を治め、ときを支配しておられるのは、あなたです。私たちは、すべてを御手の内におさめ、御心のままに動かしておられる主に信頼し、その御言葉に耳を傾けます。聖霊の働きによって、導いて下さい。 アーメン