「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」 ハバクク書3章18節
 
 1節に「預言者ハバククの祈り」という表題がありますが、祈りというよりも、これはむしろ賛美です。「シグヨノトの調べに合わせて」という言葉や、「セラ」という記号が3回出てくること、最後の「指揮者によって、伴奏付き」という言葉などから、これはまるで、詩編の詩といってもよさそうです。
 
 「シグヨノト」は、アッカド語との関連で「悲しみの歌、挽歌」という意味ではないかと、聖書辞典に記されていましたが、それがどのようなものか、よく分かりません。また、詩の内容も、悲しみというものではありません。
 
 ハバククは、神の助けを求めて叫びました(1章2節)。その叫びに、神はお答えになりました(1章5節以下、2章)。さらに、神がハバククに語りかけ、あるいは幻を見せられたのでしょう。それは、「神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる」というものでした(3節)。
 
 「テマン」とは、エドム人の一部族ですが(創世記36章11節)、エサウの長子の長子ということで、その名でエドム全体を指すこともあります(アモス書1章12節)。「パラン」とは、シナイ半島の中央部に広がる荒れ野のことですが、申命記33章2節との関連で、「パランの山」とはシナイ山のことではないかと考えられます。
 
 かつてイスラエルの民は、シナイ山で神の臨在に触れ、契約の板を授かりました。そのことについてここで言及されるということは、神がイスラエルを憐れみ、再びイスラエルの民に顕現され、救いを示して下さるということです。
 
 13,14節に、「あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた。あなたは神に逆らう者の屋根を砕き、基から頂に至るまでむき出しにされた。あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き、彼らを嵐のように攻められた」と記されていますが、これが、神がハバククに見せられた幻でしょう。
 
 2章2節で、「幻を書き記せ」と言われたとおり、その言葉に従って、ハバククはここに書いています。この幻が、いつ、どのようにして実現するのか、まだ分かりません。そのような兆しがあるわけでもありません。むしろ、ハバククの目には、厳しい現実が見えます。「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」のです(17節)。
 
 これは、天変地異による不作と考えることも出来ますが、あるいは1章6節で語られているカルデア人に蹂躙された結果、田畑を耕すことも家畜を養うことも出来なくなる、と考えることも出来るでしょう。その意味では、不法がはびこり、暴虐が地に満ちている上に、バビロンによる破壊、捕囚が襲うということは、まさに「泣き面に蜂」というところです。
 
 けれども、冒頭の言葉(18節)にあるとおり、「しかし」です。現実がどうであれ、予見される状況がどうであれ、「わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」ことが出来るのです。
 
 先には、「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」と訴えていたハバククです。しかし、ハバククは今、神の幻を見ました。神に逆らう者、暴虐をなす者に災いを下し(2章5節以下)、イスラエルの民に神がご自身を現わされるという幻です。今や、ハバククは勝利の主を信じて喜ぶことが出来ます。
 
 これこそ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(第二コリント書4章18節)、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」(同5章7節)とパウロが語っているところであり、ヘブライ書の記者が、「信仰とは、望んでいること事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ書11章1節)と記していることでしょう。そして、主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源なのです(ネヘミヤ記8章10節)。

 主よ、御言葉を感謝します。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」。常に信仰に立ち、御言葉に従うことができますように。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰で歩ませてください。 アーメン