今朝は、パソコンでインターネットができる環境にあったので、今日の御言葉を書き込むことにしました。


「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。』」 アモス書9章1節

 預言者アモスは、冒頭の言葉(1節)のとおり、主が祭壇の傍らに立っておられるのを見ました。祭壇はいけにえを献げる場所、神との和解を祈る場所です。しかし、そこで神の口から語られたのは、赦しではありませんでした。
 
 「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない.逃れて生き延びる者はひとりもない」と言われるとおり、それは、決定的な裁きです。
 
 2節の「たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、わたしは、そこからこの手で引き出す。たとえ天に上っても、わたしは、そこから引き下ろす」という言葉は、詩編139編8節を思わせる表現ですが、詩編の記者は、どこででも神の守りと導きを得ることが出来ると、その不思議に驚いています。しかしながら、ここでは神の裁きの手から逃れることは出来ないと、神が宣告しておられるのです。
 
 それは、何故でしょうか。イスラエルの民の礼拝、その賛美と祈りが神に届いていないということでしょう。なぜ、届かないのでしょうか。それは礼拝が、霊と真理によってなされていないからでしょう(ヨハネ福音書4章23,24)。
 
 アモスは、北イスラエル王国の聖所が置かれているベテルで、預言者としての働きをしていました(7章13節)。
 
 ベテルは、かつて神がヤコブ=イスラエルの前にご自身を示された場所です(創世記28章10節以下参照)。神は、そこでヤコブに祝福を与えられました(同28章13~15節)。ヤコブは、そこに記念碑を立てて神を礼拝しました(同28章18節以下)。神は今もご自身を、その祭壇の傍らに現されているのです。
 
 それなのに、イスラエルの民の目には、神の御姿が見えないのです。御声が聴こえないのです。
 
 かつて、シロの町の聖所で、エリという祭司が仕えていたとき(サムエル記上1章3節)、エリの息子たちが礼拝を蔑ろにしていて(同2章12節以下)、そのために、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった、と記されています(同3章1節)。
 
 そのとき、神の御声を聴いたのは、祭司エリではなく、エリに仕える幼子サムエルでした(同3章4節)。そして、サムエルに示されたのは、神がエリの家の断絶しようとしているということでした(同3章13,14節)。
 
 そして、実際にシロの聖所は閉じられることになります(エレミヤ書7章12,14節、26章6,9節)。前に学んだとおり、農夫であったアモスが預言者として働かなければならなかったのは、ベテルの祭司アマツヤが、祭司の務めを忠実に果たしていなかったから、その御声に耳を傾けようとしていなかったからです。
 
 あらためて、このことを自分に問いかけます。私たちは、神に喜ばれる礼拝を捧げているでしょうか。自らを神に喜ばれる聖なる生ける供え物として、御前に捧げているでしょうか。霊と真理をもって神を礼拝しているでしょうか。
 
 いつでも、「はい」と答えることの出来ない自分がここにいます。見せ掛けの信仰生活を反省します。裁きは確かに神の家から始まります。神を畏れなければなりません。
 
 けれども神は、私たちを滅ぼしたくて、裁きを下したくて、このように語られるわけではありません。8節に、「ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしないと、主は言われる」と記されています。これは、一方的な神の憐れみによる救いの宣言でしょう。神はヤコブの家、イスラエルの民が、神に立ち帰ることを待ち望んでおられるわけです。
 
 私たちは、今、神の豊かな恵みに常に与っています。絶えず感謝をもって、神をほめたたえる者にならせていただきましょう。聞く耳のある者は聞きなさいと言われる主の御言葉に耳を傾けましょう。御言葉に耳の開かれた者としていただきましょう。主の御心を悟り、その導きに従って歩みましょう。そして、喜びと感謝をもってその恵みを証しする者となりましょう。

 主よ、あなたの深い御愛を感謝致します。その憐れみによって生かされています。その恵みを徒に受けることなく、日々主の御言葉を聴き、その導きに従って歩ませて下さい。御前に唇の実を捧げることが出来ますように。 アーメン