「彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。」 エゼキエル書42章20節
 
 エゼキエルは主の使いに連れられて、神殿の外庭に出ます(1節)。そこでエゼキエルは、拝殿の北と南に二つの大きな部屋があるのを見ました。
 
 13節に、「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である」と記されています。この後の数節にも、「神聖」という言葉が繰り返し用いられています。これには、エゼキエルがかつて見たエルサレム神殿の堕落した様子が反映していると思われます(8章参照)。
 
 その部屋は、「主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる」場所であり、また、「穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物を置く」場所です(13節)。この場所で、神に献げられた最も神聖なものを祭司たちが食べて、その神聖な務めにつくようにされていたわけです。
 
 冒頭の言葉(20節)に、この神殿は、聖なるものを俗なるものから区別するために設けられた、とあります(20節)。神は、俗なるものによって汚すことの許されない、聖なる聖なる聖なるお方だということです。
 
 エフェソ書2章11節以下に、「隔ての壁が壊された」(同14節)という記事があります。かつての神殿には、異邦人や女性、子どもとユダヤ人男性を隔てる壁があり、そして祭司だけが入れる聖所(拝殿)、そして、選ばれた大祭司が一年に一度だけ入れる至聖所(奥殿)と、人を区別する壁が幾重にも建てられていました。しかし、キリストが神殿の垂れ幕を真っ二つに裂かれて(マルコ福音書15章38節、ヘブライ書10章20節)、この壁が壊されました。今や、神を信じる者に異邦人とユダヤ人、男と女といった区別はなくなり(ガラテヤ書3章28節)、すべての者が父なる神に近づくことが出来る(エフェソ書2章18節)、と教えられています。
 
 けれども、壁が壊されたからといって、聖と俗の区別はどうでも良いことになった、というわけではありません。神は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ書13章8節、マラキ書3章6節も参照)。パウロは、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(第一テサロニケ4章3節)と語り、ヘブライ書10章10節には、「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」と記されています。

 私たちは、「使徒や預言者という土台」(エフェソ2章20節)、つまり、使徒や預言者によって語られた神の御言葉を基盤とする生活をするのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と書いてあるとおりです。祭司たちが神聖なものを食べて主の務めを果たしたように、私たちも、神の御言葉を食べて、主の僕としての務めを果たさせて頂くのです。
  
 14節に、「祭司たちが聖所に入ったときは、聖所からそのまま外庭へ出てはならない。務めのときに身に着けた衣服はそこへ置く。なぜなら、それは神聖だからである」とあります。聖にして聖なる神に近づいて務めを果たすために、神聖な衣服で身を覆う必要があったわけです。

 私たちは主イエスを信じてバプテスマを受けたとき、キリストを着せて頂きました(ガラテヤ書3章27節)。それは、主イエスを信じるすべての者を清めるため、主がご自分の肉を裂き、尊い血潮を流して下さったということであり、主イエスにあって、新しく生きる者とされたということです。先のヘブライ書の引用箇所に言われるとおりです。
 
 また私たちは、生ける神の神殿とされました(第二コリント書6章16節)。私たちの内に聖なる神の霊が宿っています(第一コリント書3章16節、6章19節)。これは、個々人のことではなく、神の教会を指しています。聖霊の働きによって、御言葉を土台とし、主イエスを中心に、主を信じる信仰に導かれた者たちが互いに組み合わされて、聖なる神殿として建て上げられて行きます(エフェソ書2章20,21節)。
 
 聖霊の内住により、キリストの体として立てられた教会の働きを通して、神の栄光を表わすことが出来るように、今日も御言葉を聴き、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御子の贖いによって神の家族に加えて下さり、感謝します。私たちを日々御言葉によって養い、御霊の働きを通して、神の栄光を表わす神の住まいとして建て上げて下さい。 アーメン