「お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。」 エゼキエル書28章3節

 ティルスに対する託宣(26~28章)の最後の章で、ここには君主に対する託宣が記されています(2節)。冒頭の言葉(3節)では、ティルスの王に対して、「ダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない」、と言われています(3節)。ダニエルについては、ダニエル書1章17節に、「この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」と言われています。ある註解書には、「古代世界における伝説的な賢人であり、ツロ(ティルスのこと)より少し北のラス・シャムラで発掘されたウガリット語の文献の中でも言及されている」とありました。
 
 ダニエルよりも賢いと言われるティルスの王は、その知恵を用いて国際貿易で大きな利益を上げ、金銀を宝庫に蓄えることが出来ました(4節)。しかし、彼はその知恵にも拘らず、愚かさを示したと言われます。それは、「わたしは神だ」と思い上がり(2,6節)、自分が人間に過ぎないという真実を認めることが出来なくなっているからです。その意味で、「ダニエルよりも賢く」というのは、思い上がって自分を神であるかのように思っていることを皮肉った表現ではないでしょうか。
 
 13節を見ると、彼はエデンの園にいるとあり、そして14節では、「翼を広げて覆うケルブとして造った」と言われます。創世記3章で蛇が人間に善悪の知識の木の実を食べさせるとき、神のように善悪を知るものとなる、つまり、神のように知恵あるものとなると誘いました。人は知識の実を食べて賢くなったかもしれませんが、しかし愚かでした。それは、神に背いたからです。結局、エデンの園を追放されてしまいます。そして神は、命の木の実を食べて永遠に生きる者となることがないよう、命の木に至る道を、ケルビムときらめく剣の炎に守らせられました(創世記3章24節)。
 
 ということは、神に背いてエデンの園を追い出されたアダムたちから命の木を守るようにという使命を仰せつかったケルビムが、おのが知恵と美しさに心昂ぶり、「わたしは神だ」と言い出して、神に裁かれているという状況が思い浮かびます。
 
 確かに、優れた知恵をもっていれば、この世において、様々な工夫やアイデアで大きな業績を上げ、莫大な富と力を手にすることが出来るでしょう(4,5節)。ただ、そのような工夫や努力、成し遂げた成果に目を奪われていて、その知恵をお与え下さった神を忘れてしまいます。
 
 聖書は、「主を畏れることは知恵の初め」と語ります(箴言1章7節など)。この真の知恵を神から授かった者は、当然、主なる神を畏れることを知っているわけで、その人間が、「わたしは神だ」、「自分の心は神の心のようだ」」などと思うはずがないのです。それなのに、他人と比べて優れた知恵を持っていると、自分が人間に過ぎないことを忘れてしまうのです。
 
 同じ箴言に、「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている」、という言葉があります(11章22節)。金の輪は美しいものだけれども、それを豚の鼻輪にするのは不釣合いです。ですから、対句の「美しい女性に知性が欠けている」というのは、美しい女性に知性が欠けていて、不釣合いだということになります。豚が鼻に金の輪を飾り、美しい女に知性が欠けているという組み合わせから、自分の美しさを鼻にかけている女性は、豚が金の花輪をしているようで、知性に欠けているという意味に読めばよいのでしょう。そしてこれは、女性の美だけを語っているものではないでしょう。自分の知恵の豊かさを鼻にかけたり、財産の多さを鼻にかけたりと、自分の持ち物を過信する者たちの愚かさを語っているのです。それは、いかにも不釣合いなので、神に取り上げられてしまうのです。豚に真珠を投げ与えるべきではないからです(マタイ福音書7章6節)。
 
 私たちにすべての賜物をお与え下さった主の恵みを忘れず、賜物を生かして用い、主にあって豊かな実を結ぶ人生を歩ませて頂きましょう。その原点は、主を畏れること、主を愛すること、主を信じることです。

 主よ、私たちが持っているもので、本当に私たちのものといえるものは一つもありません。それらは皆、委ねられた使命のために用いるようにと、あなたから授かったものです。主にあって豊かな実を結ぶ人生を歩むことが出来るように、日々御言葉を賜り、その導きに忠実に従うことが出来ますように。 アーメン