「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。」 エゼキエル書14章14節

 13節で、「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜もたち滅ぼす」、と主が語られました。「ある国」とは、すべての国を指す表現ではありますが、まず第一に、イスラエルのことが考えられていると言うべきでしょう。イスラエルは、神の選びの民でありながら、神の前に不信を重ね、罪を犯し続けているからです。
 
 ダビデ王朝最後の王ゼデキヤも、「主の目に悪とされることをことごとく行った」と言われ(列王記下24章19節)、それゆえ、「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態(第二次バビロン捕囚を招いた)となり、ついにその御前から捨て去られることになった」のです(同30節)。
 
 そしてそのとき、冒頭の言葉(14節)のとおり、たとえそこにノア、ダニエル、ヨブという義人たちがいたとしても、彼らは自分の息子、娘たちも救うことが出来ない。ただ彼らは自分自身を救い得るのみである、などと繰り返し言われます(16,18,20節)。
 
 かつて、ノアは箱舟を造り、それによって家族と動物たちを救いました(創世記6章以下)。ヨブは、家族や財産を一度に失うという経験をしましたが、最終的に、すべてが回復され、財産は倍になりました(ヨブ記1章、42章7節以下)。ダニエルについては、この件に関して、その名が上げられる理由はよく分かりません。
 
 ただ、ダニエル書の「ダニエル」とはつづりが違いますので、紀元前13世紀ごろ記されたと考えられているウガリット文書に出て来る正義の支配者ダニエルのことではないか、という説があります。ノアはイスラエル建国前の人物で、メソポタミアのギルガメシュ叙事詩との関連が無視出来ませんし、ヨブはウツの地(ヨブ記1章1節)、それはエドムのことと考えられています。ということは、ここに名が挙げられた三人はいずれも、いわゆる「ユダヤ人」ではないということになります。それにより、世界中から「義人」を呼び集めたとしても、そして、彼らがイスラエルの救いを執り成し祈ったとしても、イスラエルを救うことは出来ないということが示されるわけです。
 
 もしかすると、偽りの預言者たちが、この三人の名前を上げながら、彼らがイスラエルの平和を回復してくれる、それに期待しようと告げていたのかも知れません。そして、エゼキエルのもとにやって来た長老たちは、そのような人物の登場を待ち望んでいたのではないでしょうか。
 
 けれども、その期待は適いません。その希望は失望に終わります。それは、彼らの信仰が神の御前に真実ではないからです。イスラエルの長老たちは、心に偶像を抱いている、と主に見抜かれています(1節以下)。捕囚という苦難の中で、自分たちを救い、解放してくれるものなら誰でもよい、何でもよいと、あれもこれもに手を出そうとしてしていたのでしょう。
 
 かつて、サウル王が、ペリシテとの闘いに臨み、神の託宣を得ようとして果たせなかったとき(サムエル記上28章1節以下、6節)、口寄せ(霊媒)の女性の所へ赴きました。それはまさに、主に対する不信の表れ以外の何ものでもありませんでした。
 
 神が願っておられるのは、イスラエルの民がおのが罪を認め、悔い改めて神に立ち返ることです。恵みと憐れみの神を思い出すことです。ノア、ダニエル、ヨブが自分自身を救いうるのは、彼らが立派で何の落ち度もない完全無欠の人間だからではなく、神に聴き、神の導きに素直に従う者たちだったからです。神は、イスラエルの民がかの三人のようであることを望んでおられるのです。

 主よ、私は義人ではありません。自分で義人になれません。どうか私を憐れんで下さい。罪を赦し、罪の呪いから解放して下さい。絶えず主の御顔を尋ね求めます。御子イエスの贖いのゆえに、すべての罪を赦し、神の子として下さったことを、心から感謝致します。 アーメン