「わたしは彼らから顔をそむける。彼らはわたしの宝を汚し、乱暴な者が襲いかかって汚す。」 エゼキエル書7章22節

 7章には、「終わりが来る」(2,3,6節)、「怒りを送る」(2,8,12,14節)、「災いが来る」(5,26節)、「時は来た」(7,12節)、「その日が来る」(7,10,12節)、などという言葉が、繰り返し語られています。
 
 冒頭の言葉(22節)の中に、「宝」という言葉がありますが、これは、神の民イスラエルのことであり(出エジプト記19章5節、申命記7章6節、14章2節など)、また、神がご自身の名を置くと言われたエルサレムの神殿のことです(22節「宝を汚し」、24節「彼らの聖所は汚される」)。口語訳聖書などは、「宝」を「聖所」と訳していますが、それは大切な場所という意味を考えた翻訳です。
 
 597年にバビロンに連れて来られた捕囚の民にとって、神がエルサレムの都におられ、バビロンの縄目から解放してくれる王をダビデの子孫から立ててくれるということが、最後の望みでした。しかしながら、神は、「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に、町にいる者は飢えと疫病が滅ぼす」(15節)と言われます。すなわち、剣や疫病、飢饉によって、彼らが一縷の望みとしていた神の都エルサレムの民、そして神殿が滅ぼされるというわけです。これは、エレミヤ書15章2節にも預言されていたことです。
 
 イスラエルの民は、諸外国の圧力や、飢饉、疫病といった災害が起こると、自分の力で何とか解決しようとしますが、なんともなりません。かつては、苦しみの中から呼ばわると、神が助けて下さいました(列王記下19章14節以下、詩編7節、50編15節など)。けれども、今は神ご自身が敵となられ、彼らは神によって苦しめられているのです(エレミヤ諸21章5節、哀歌2章4,5節)。
 
 彼らは、この事態を何とかしてもらおうと、憎むべき忌まわしい偶像を造り(20節)、礼拝をささげます。イスラエルの民がまことの神に背き、神のもとを離れて異郷の神々を慕う偶像礼拝を行っていることが、この苦しみの原因であるのに、その原因に目を向けようとせず、対処療法的に、「溺れる者は藁をもつかむ」と言われるとおり、手当たり次第、あらゆるものに手を伸ばしているのです。けれども、それでは何の解決にもなりません。むしろ、問題をますます深刻にするだけです。
 
 民の罪により、ご自身の「宝」を汚された主なる神は、彼らの家を奪い取らせ、力ある者の誇りを挫き、そうして、彼らの聖所を汚すと言われています(24節)。これは、イスラエルの民によって汚されたエルサレムの都を、神は荒れるにまかされるということでしょう。けれどもそれは、滅ぼし尽くすことを目的としているのではありません。むしろ、彼らの背きの原因を取り除き、彼らが真に目覚めて主なる神のもとに立ち帰ることを期待しておられるのではないでしょうか(6章8節)。
 
 主の祈りのはじめに、「御名が崇められますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「あなたの名前が聖とされますように」となります。「聖とされるように」と祈るということは、御名が汚されているということです。御名を聖とするということは、御名を汚した者を裁くということでもあります。そして、誰が汚したのかと言えば、それは、この祈りを祈る私自身です。私が罪を犯して主の御名を汚したがゆえに、私を裁いて御名を聖別して下さい、と祈るのです。
 
 このように主の御前に跪き、悔い改めの祈りをささげるとき、主は親しく聞いて、「子よ、安かれ、汝の罪、赦されたり」と仰せ下さるのではないでしょうか。
 
 主よ、私を憐れんで下さい、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。 アーメン