「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。」 エレミヤ書50章20節
 
 46章から語られてきた諸国民に対する預言の最後は、バビロンに向かって語られる主の言葉です(1節)。2節に、「バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ、偶像は砕かれた」と言われます。
 
 ここで、「ベル」は「主」という意味で、バビロンの主神マルドゥクのことを指しています。もともと、マルドゥクはバビロンの町の守護神でしたが、この町がバビロニア帝国の首都となったので、帝国の最高位の神として崇められるようになったのです。しかし、バビロンが陥落すると、マルドゥクの威光も地に落ち、全く空しいものとなると言われているわけです。
 
 かつて、イスラエルが約束の地に入るに当たり、神は、「あなたの神、主があなたの前から彼ら(アナクの子孫)を追い出されるとき、あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである」(申命記9章4節)と言われたことがあります。
 
 その意味で、バビロンがイスラエルをはじめパレスティナ諸国を敗北せしめ、多くの民を捕囚としたのは、バビロンが心正しく神の前を歩んでいたからではありません。イスラエル他の国々が神に背き、異教の神々に仕える生活をして、神の怒りを買ったからです。
 
 そして、70年の時が満ちたとき(25章11,12節、29章10節など)、今度は、「一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り、バビロンの国を荒廃させ」(3節)ます。ここに、「一つの国が北から」と言われていますが、実際にバビロンを攻めるのは、バビロンの東方にあるエラムとメディア(イザヤ書21章2節)、即ちペルシャの国のことです。それを「北」というのは、イスラエルから見て北方ということでしょう。主なる神は、ペルシャの王キュロスに油を注いで(イザヤ書44章28節、45章1節など)、神に背く罪を犯しているバビロンを罰するのです。
 
 このことを、17,18節でもう一度取り上げらたのち、「そして、イスラエルを元の牧場に連れ戻す。イスラエルはカルメルとバシャンで草をはみ、エフライムとギレアドの山で心ゆくまで食べる」(19節)と言い、さらに「その日、その時には、・・・イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである」(20節)と語ります。
 
 ここで、「イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない』と言われていることについて、31章34節で、「そのとき・・・わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」、33章8節でも、「わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」と言われていました。これは、神とイスラエルの民との間に結ばれる新しい契約のことです。
  
 イスラエルの民がバビロンから解放されて帰国を果たすことが出来、そして、彼らの罪を赦すと言われるのは、イスラエルの民がバビロンで心正しく歩んでいたからではありません。神のイスラエルに対する深い愛と憐れみのゆえです。そしてこの新しい契約は、御子イエス・キリストが十字架にかかって贖いの死を遂げられたことによって、成立しました(ヘブライ書8,9章参照)。
 
 私たちも、主イエスを信じる信仰によって、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。神の一方的な恵みにより、主との契約関係に入れていただいたのです。高ぶってはなりません。いつも主の前に謙り、神の力強い御手の下で自らを低くしましょう。そうすれば、あらゆる恵みの源である神が私たちを高く上げ、完全な者として強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さいます(第一ペトロ書5章6,10節参照)。
 
 主よ、あなたは私たちの罪を赦すと宣言されました。主イエスの十字架の死と甦りの御業こそ、その確かな徴です。私たちは、神の変わることのない生きた御言葉によって新たに生まれたのです。その御業に心から感謝して主の御名を褒め称え、その福音を力強く証しすることが出来ますように。 アーメン