「ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。『あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、「エジプトへ行って寄留してはならない」と言っておられない』。」 エレミヤ書43章2節

 ヨハナンたちは、「わたしたちは必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います」(42章5節)と約束していましたが、エレミヤが主に示された言葉を語り告げたとき、民らはそれを実行するどころか、冒頭の言葉(2節)のとおり、「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしてはいない」と言い、民全員が、全くその御言葉に聞き従おうとはしませんでした(4節)。
 
 そのような振る舞いが神を喜ばせないだけでなく、怒りを招く愚かな行為であるということが、8節以下の、エジプトにおける預言の言葉に示されています。
 
 ユダヤ人歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代史』に、「エルサレム陥落後5年、ネブカドネツァルの第23年に、ネブカドネツァルはコイレ・シリヤに進撃し、これを占領した後、モアブ人とアンモン人と戦った。これらの国々を従えてから、彼はエジプトに侵入し、これを屈服させた。位についた王を殺し、新しい王を定め、その地にいたユダヤ人を捕らえてバビロンに連れ去った」と記されているそうですが、残念ながら、この記事を裏付ける証拠が全くありません。
 
 バビロンの資料に、ネブカドネツァルの治世第37年、エジプトのアフメネスⅡ世と戦ったとあるそうですが、その結果は、占領には至りませんでした。エジプトは、ペルシア時代に征服されるまで、独立を保ち続けたのです。このときの戦いは、占領を目的としていたというよりは、バビロンに敵対しても無駄だということを知らしめる、牽制的、あるいは警告的なものだったようです。
 
 その意味で、エレミヤの預言は文字通り実現することはなかったということになりますが、エジプトが滅びるかどうかが問題ではありません。エレミヤが語っているのは、エジプトの神々はイスラエルの民を守ってはくれない、ということなのです(12,13節)。
 
 エレミヤの言葉を「偽り」と断じたアザルヤやヨハナンのことを、聖書は「高慢な人々」と括っています。彼らは、自分たちの決定を神の言葉よりも大事にし、そうして、神の言葉を蔑ろにしているのです。その態度が「高慢」と言われているわけです。
 
 ヤコブ書4章6節以下に、「『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』。だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」、と記されています。「主の前にへりくだる」とは、神を恐れ、その御言葉に聞き従うことです。
 
 私たちは今、日毎に御言葉を聴き、静かに御言葉を瞑想することを教えられています。そこで聴いた言葉を繰り返し口ずさみ、またその導きに従って歩むことを通して、御言葉が確かに神の言葉であることを知り、味わいます。御言葉はまた、教会を清めます。エフェソ書5章26節に、「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」とあります。ということは、私たちが繰り返し御言葉を口ずさむことによって、私たちの口や心も清められるわけです。

 主よ、あなたの愛と憐れみのゆえに感謝致します。私たちは、キリストの贖いなしに御前に進むことの出来るものではありませんでした。絶えず感謝をもって御前に進み、悔い改めて福音に生きることが出来ますように。ただひたすら、あなたの恵みに依り頼みます。御前に謙る者を高く引き上げて下さると、約束されているからです。 アーメン