「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。」 エレミヤ書15章19節

 1節で、「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」と、災いを下す決定はもはや変更されないことを確言されます。
 
 というのは、モーセやサムエルは、神に背いたイスラエルの民のために執り成しの祈りをし、神はその祈りを聞いて何度も災いを思い返されていたからです。イスラエルを代表する執り成しの祈り手二人の祈りを聞かないということは、もう、神を止め得る者はいないということです。
 
 主は、疫病か、剣か、飢えか、捕囚によって、イスラエルを罰すると言われます(2節)。最初の三つは、14章12節にも挙げられていました。そしてこれらは、民の命を奪うものです。最後に「捕囚」と言われ、それは過酷な運命に違いありませんし、国が滅びることではありますが、しかし、民は捕囚の地で生きることになります。彼らがやがてイスラエルを再建するのですが、今はまだ、そのことが明らかにはされていません。
 
 エレミヤの告げるこの預言はまったく不人気で、「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている」(10節)と言われるほどに民の間に物議を醸し、それによって迫害を受けました(15節参照)。

 ここに来てエレミヤは、「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)と、あのヨブのように、自分の運命を呪う言葉を口にします(ヨブ記3章1節以下参照)。そう語るのは、1章19節で、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と言われた主の言葉が履行されていない、とエレミヤが考えたからです。そして、神がこの御言葉の約束を果たされないのは、神に見捨てられたのか、神に欺かれたのかとさえ、考えてしまったのです。
 
 18節に、「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」と語っています。「当てにならない流れ」とは、パレスティナに見られる水の流れていない川(「ワーディ」という)のことです。神を「生ける水の源」(2章13節)と呼んでいたのに、ワーディのようだと言わなければならないのは、なんと皮肉なことでしょう。
 
 16節の、「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」という言葉は、恐らく、エレミヤの召命の出来事を指していると思われます。1章6節では、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、預言者就任を拒む姿勢を見せていました。それをここで、「わたしはそれをむさぼり食べました」と語って、預言者として嫌々働いて来たのではない、むしろ喜んで仕えて来たことを、「あなたはご存知のはずです」と言い、だから、「わたしを思い起こして欲しい」と願うのです。つまり、喜び躍っているはずの心に、神に対する不信や不満が燻っているわけです。
 
 神から見捨てられたと考えているエレミヤに、冒頭の言葉(19節)のとおり「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と主は言われます。神は決してエレミヤを見捨ててはいないゆえに、主への信仰とその使命に固く立つように、招いているのです。
 
 御言葉を聴いたとき、心燃やされて立ち上がっても、この世の現実にぶつかってその炎が吹き消され、情熱が冷めてしまうというのは、私たちがよく経験するところです。「あなたが軽率に言葉を履かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」と言われているごとく、私たちの心から御霊の火を消さないように、むしろ新たな御霊の油が注がれるように、信仰に固く立ち、信仰の言葉を語りましょう。

 主よ、あなたは私の弱さをよくご存知です。いつも心が聖霊に満たされ、喜び、心躍らせて主にお仕えすることが出来るように、御言葉に基づく信仰の言葉を語らせて下さい。常にあなたが共にいて私を助けて下さることを信じます。 アーメン