「主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている』。」エレミヤ書1章12節
 
 エレミヤは、「ベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子」(1節)です。「アナトトの祭司」というのは、ダビデに重く用いられた祭司アビアタルの子孫のことかもしれません(サムエル記上22章20節以下、サム下15章24節以下、17章15節な)。
 
 アビアタルは王位継承を巡ってその行動を誤り、その結果、ソロモンにより退位させられ、アナトトに追放されたからです(列王記上2章26節)。エレミヤ書には、祭司や預言者に対して厳しい裁きの言葉が多く記されていますが、それはエレミヤが、祭司の家系に生まれ育ったからこその視点であると言ってもよいでしょう。
 
 エレミヤは、「アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年」(2節)、即ち紀元前627年ごろから、「ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第11年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで」(3節)、即ち前587年ごろまでのおよそ40年間、エルサレムで預言者として活動しました。
 
 4節以下に、エレミヤの召命の出来事が記されています。神の召しに対してエレミヤは、「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と答えています(6節)。この言葉を根拠として、エレミヤが活動を始めたのは20歳に満たないころと想像されていますが、「若者に過ぎない」とはしかし、年齢よりも、経験不足、未熟さを言い表しているものです。
 
 エレミヤが弟子のバルクを書記として、彼が語ってきた預言を巻物に書き留めさせた、つまり、このエレミヤ書を書かせたのは、「ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」(36章1節)、即ち紀元前604年のことです。エレミヤはここに、自分の召された時のことを物語りつつ、今なお自分は未熟者であると考えているのではないでしょうか。
 
 それは、謙遜というよりも、職務に対する畏れであり、神に対する畏れの表れです。つまり、預言者という職務は、経験によって出来るものではなく、常に神の御前に謙り、全身を耳として語るべき言葉を神に聴き、それを畏れの心をもって忠実に民に告げるという務めなのです。
 
 エレミヤは召されてひとつの幻を見ました。それは「アーモンドの枝」です(11節)。神はそれで、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と語られます(12節)。「アーモンド」と「見張っている」は、ヘブライ語原典では、シャーケード、ショーケードという語呂合わせになっています。
 
 ここで、神が、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と語っておられますが、神が見張っておられるのは、私たちが神の御言葉をどのように受け止め、成し遂げようとするかということです。
 
 ヘブライ書4章2,3節に、「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。信じたわたしたちは、この安息に与ることができるのです」とあるように、神は、私たちが信仰によって御言葉と結びつくかどうか、つまり私たちが神の御言葉を聴いて、信じて従うかどうかを見張っておられるのです。
  
 天使ガブリエルの告げた男子の誕生の知らせを信じられなかった祭司ザカリアに対し、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げます(ルカ福音書1章5節以下、20節)。
 
 ザカリアは、そこで神の御言葉が以下に実現するか、無言の内に注目させられました。まさにザカリアは、御言葉が成し遂げられるところを見張っていたわけです。
 
 私たちも、時が来れば実現する神の言葉に日々耳を傾け、信じて従ってまいりましょう。

 主よ、私たちはあなたの僕です。どうかお言葉どおり、この身に実現しますように。正しく御言葉を聴き、信仰をもって忠実に実行させてください。あなたの御言葉は真実だからです。 アーメン