「主はわたしにこう言われた。『わたしは黙して、わたしの住む所から目を注ごう。太陽よりも激しく輝く熱のように、暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように』。」 イザヤ書18章4節

 18章には、「クシュとの陰謀」という小見出しがつけられています。クシュとはエチオピアのことです。

 紀元前714年、エチオピアはエジプトを征服し、台頭してきたアッシリアに対抗するため、パレスティナ諸国に働きかけて、反アッシリア同盟を結成しようとしました。2節の、「彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ、海を渡って使節を遣わす」とは、そのことを指していると思われます。であれば、1節の「災いだ」という言葉は、イザヤがこの同盟の働きかけに反対していることを示していることになります。

 アッシリアはこの動きを察知、ペリシテに軍を進めてアシドドを落とし、ペリシテに援軍を送ったエチオピア軍も撃破されて、同盟は壊滅しました。紀元前711年ごろのことです。アッシリアがペリシテを攻めたのは、ペリシテが反アッシリア同盟の急先鋒だったからで、3節の、「山に合図の旗が立てられたら、見るがよい。角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい」とは、ペリシテがアッシリアに反旗を翻し、同盟諸国に蜂起を促した事実を指します。

 5,6節を、神によるアッシリアの滅亡と読む立場もありますが、むしろ、アッシリアによる反アッシリア同盟の壊滅と読むべきでしょう。

 7節で、「貢ぎ物が万軍の主にもたらされる」と語った後、その貢ぎ物は、「背高く、肌の滑らかな民から、遠くの地でも恐れられている民から、強い力で踏みにじる国、幾筋もの川で区切られている国から」、即ちエチオピアから、「万軍の主の名が置かれた場所、シオンの山」、即ちエルサレムにもたらされると言われています。これは、エルサレムがエチオピアを支配しているということを示しており、それゆえ、エチオピアは同盟を結ぶべき相手ではない、と語っているわけです。

 この預言の中心に、冒頭の言葉(4節)において語られている主の言葉が響きます。主なる神は、「わたしは黙して、わたしの住む所から、目を注ごう」と言われます。

 ここで、「黙して」と訳されているのは、シャーカトという言葉で、「静まる、落ち着く、安んじる、沈黙する、休む、留まる、平安を与える」といった意味があります。この言葉は、イザヤにとって重要な言葉で、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(7章4節)、「しかし今、全世界は安らかに憩い、喜びの声を放つ」(14章7節)、「お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ、力がある」(30章14節)、「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(32章17節)などと用いられています。

 これらの箇所は、民が主なる神を信頼する様子を描写する言葉として語られていますが、この箇所では、神ご自身が静まって成り行きをしっかりと見守るという言い方で、ユダに冷静な行動を求めていると言ってよいのでしょう。

 もともと、シャーカトは 「鳥が巣篭もる」という意味だったそうです。卵を抱いた鳥は、むやみに動き回りません。そこから、大切なときにバタバタしない、おどおどしないという意味になったというわけです。

 神を信じる者は、世の中の動きと無縁なわけではありません。様々な世の中の波にもまれます。そして、神もまた、そのような私たちとは無縁の天の高みに独りおられるのではありません。

 4節後半の、「太陽よりも激しく輝く熱のように、暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように」という言葉の意味は、必ずしも明らかではありませんが、神がどんなに熱い思いでイスラエルに目を注いでおられるのかが示されます。その眼差しに支えられて、その御手に守られて、波立つ心が安らかにされるのです。

 主よ、私は自分で自分を支えることが出来ません。あなたが見ていて下さるから、支えていて下さるので、まっすぐに立つことが出来ます。落ち着くことが出来ます。今日も御手の内に守っていて下さることを感謝致します。 アーメン