「富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。」 箴言13章7節
冒頭の言葉(7節)は、その文字面を眺めていると、確かに「人は見かけによらない」という思いが伝わって来ます。ぼろを着てても大金持ちかもしれないし、きらびやかな服を着てすごい車を乗り回していても、台所は火の車かもしれません。でも、私たちはその外見で人を判断します。だから、私たちも外見を飾ろうとします。なのに、自分の内面の貧しさに気づかないでいたりします。
経済のことでなく、精神的なこと、霊的なこととして考えて、自分が内面の貧しさに気づけば、豊かになろうとして努力するでしょう。謙虚になって、謙遜になって学ぼうとすると、どんなことからも豊かに学ぶことが出来ます。貧しさを自覚するからこそ、熱心に学ぼうとし、そうすると、本当に心豊かに生きることが出来るでしょう。
水戸黄門は、ちりめん問屋のご隠居という姿で世直しの旅をします。行く先々の悪を懲らしめます。「この紋所が目に入らぬか」と印籠を出したところから、ちりめん問屋のご隠居が天下の副将軍に戻ります。その圧倒的な権力の前に、悪人が平伏します。勧善懲悪の単純なドラマが視聴率を稼ぐというのは、世の中に様々な悪が、それも権力者による悪がはびこっているからでしょう。
権力を持っている者が、将来を見通す見識を持って、正しい政治を行い、経済を導くなら、黄門様はいなくてもよい、ということになるでしょう。権力者だけじゃなくて、私たちは、明日が見えるでしょうか。明後日が見えるでしょうか。
私たちが持っているもので幸福か不幸かが決まるなら、誰もが幸福になれるものを手に入れようと躍起になるでしょう。それを手に入れ損なった人は、不幸が確定するというような図式になりますね。でも、私たちに幸福を約束してくれるモノなど、ありません。確かに、欲しいと思っていたモノが手に入ったとき、嬉しいです。長い間待ち続けてやっと手に入れたときなど、その喜びは一入です。けれども、そんな喜びや感動は、時とともに失せ去ります。モノが与えてくれる喜びは、その程度のものでしょう。
人間関係を考えて見ましょう。お互いに生きている者同士ですから、自分の思い通りになる関係などあり得ません。互いに山あり、谷ありです。順風のときも逆風のときもあります。笑うとき、涙するとき、悲しいとき、憤るときなど、様々な思いや感情をその時々に共有しながら、共にすごした長い年月が、やがて思い出となり、かけがえのない宝となります。
聖書が語る豊かな「命」とは、まさにそのような、呼べば答える、打てば響く、生きた関係を指しています。呼んでも返事しない、反応しない、相手を無視してしまうなら、その関係は死んでいます。命がないわけです。お互いの関係を喜び合うために知恵を出し、我慢したり忍耐したり、時には少し諦めたりしながら、工夫して共に過ごすことをしなければ、深い豊かな関係、喜びや満足は生まれて来ません。
そう考えてみると、神様は、私たちを神の子として喜び迎えるために、独り子キリストを犠牲にして、なんと長い間我慢を重ね、忍耐していて下さることでしょうか。神様の深い愛と憐れみがあればこそ、その強い思いがあるからこそ、私たちは今、主イエスを信じる信仰に導かれ、救いの恵みをいただくことが出来たのです。神ご自身が、とことん自分のものを与え尽くして貧しくなられたお蔭で、私たちは豊かさを味わわせて頂いているわけです。
神様との関係をいよいよ豊かにするために、絶えず主の呼びかけに応答出来るよう、御言葉を聴き、信仰の祈りと賛美をささげたいと思います。
主よ、私たちはあなたによって人生の真の目的を知らされ、希望と平安に与り、キリストにある悔いのない生涯を歩ませて頂いています。そのためにあなたが払われた犠牲を思うと、どれほど感謝しても、感謝しきれるものではありません。ただ、あなたが望まれる人生を、まっすぐ歩み通すことが出来るように、日々御言葉に耳を傾けます。導いて下さい。 アーメン
冒頭の言葉(7節)は、その文字面を眺めていると、確かに「人は見かけによらない」という思いが伝わって来ます。ぼろを着てても大金持ちかもしれないし、きらびやかな服を着てすごい車を乗り回していても、台所は火の車かもしれません。でも、私たちはその外見で人を判断します。だから、私たちも外見を飾ろうとします。なのに、自分の内面の貧しさに気づかないでいたりします。
経済のことでなく、精神的なこと、霊的なこととして考えて、自分が内面の貧しさに気づけば、豊かになろうとして努力するでしょう。謙虚になって、謙遜になって学ぼうとすると、どんなことからも豊かに学ぶことが出来ます。貧しさを自覚するからこそ、熱心に学ぼうとし、そうすると、本当に心豊かに生きることが出来るでしょう。
水戸黄門は、ちりめん問屋のご隠居という姿で世直しの旅をします。行く先々の悪を懲らしめます。「この紋所が目に入らぬか」と印籠を出したところから、ちりめん問屋のご隠居が天下の副将軍に戻ります。その圧倒的な権力の前に、悪人が平伏します。勧善懲悪の単純なドラマが視聴率を稼ぐというのは、世の中に様々な悪が、それも権力者による悪がはびこっているからでしょう。
権力を持っている者が、将来を見通す見識を持って、正しい政治を行い、経済を導くなら、黄門様はいなくてもよい、ということになるでしょう。権力者だけじゃなくて、私たちは、明日が見えるでしょうか。明後日が見えるでしょうか。
私たちが持っているもので幸福か不幸かが決まるなら、誰もが幸福になれるものを手に入れようと躍起になるでしょう。それを手に入れ損なった人は、不幸が確定するというような図式になりますね。でも、私たちに幸福を約束してくれるモノなど、ありません。確かに、欲しいと思っていたモノが手に入ったとき、嬉しいです。長い間待ち続けてやっと手に入れたときなど、その喜びは一入です。けれども、そんな喜びや感動は、時とともに失せ去ります。モノが与えてくれる喜びは、その程度のものでしょう。
人間関係を考えて見ましょう。お互いに生きている者同士ですから、自分の思い通りになる関係などあり得ません。互いに山あり、谷ありです。順風のときも逆風のときもあります。笑うとき、涙するとき、悲しいとき、憤るときなど、様々な思いや感情をその時々に共有しながら、共にすごした長い年月が、やがて思い出となり、かけがえのない宝となります。
聖書が語る豊かな「命」とは、まさにそのような、呼べば答える、打てば響く、生きた関係を指しています。呼んでも返事しない、反応しない、相手を無視してしまうなら、その関係は死んでいます。命がないわけです。お互いの関係を喜び合うために知恵を出し、我慢したり忍耐したり、時には少し諦めたりしながら、工夫して共に過ごすことをしなければ、深い豊かな関係、喜びや満足は生まれて来ません。
そう考えてみると、神様は、私たちを神の子として喜び迎えるために、独り子キリストを犠牲にして、なんと長い間我慢を重ね、忍耐していて下さることでしょうか。神様の深い愛と憐れみがあればこそ、その強い思いがあるからこそ、私たちは今、主イエスを信じる信仰に導かれ、救いの恵みをいただくことが出来たのです。神ご自身が、とことん自分のものを与え尽くして貧しくなられたお蔭で、私たちは豊かさを味わわせて頂いているわけです。
神様との関係をいよいよ豊かにするために、絶えず主の呼びかけに応答出来るよう、御言葉を聴き、信仰の祈りと賛美をささげたいと思います。
主よ、私たちはあなたによって人生の真の目的を知らされ、希望と平安に与り、キリストにある悔いのない生涯を歩ませて頂いています。そのためにあなたが払われた犠牲を思うと、どれほど感謝しても、感謝しきれるものではありません。ただ、あなたが望まれる人生を、まっすぐ歩み通すことが出来るように、日々御言葉に耳を傾けます。導いて下さい。 アーメン
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