「『恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに』と、主に贖われた人々は唱えよ。」 詩編107編1,2節

 詩編107編は、第五巻(107~150編)の巻頭にふさわしく、第二の出エジプトともいうべきバビロン捕囚からの解放を経験した詩人の、主の慈しみに感謝する賛美の歌です。

 4~32節に、神のなさった4つの贖いの業が記されています。各組には、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」の句が、リフレインとして詠われます。

 第一組(4~9節)は、荒れ野で迷い、飢え渇いた人々のため、良いもので満たすという恵みです。第二組(10~16節)は、牢獄に捕らわれ、闇と死の影に脅かされていた人々のため、牢の戸を破り、解放するという恵みです。第三組は、背きと罪の結果、病いによって死の床にいた人々のため、癒しをなし、立ち上がらせるという恵みです。第四組(23~32節)は、海で嵐に遭って死に飲み込まれそうになっていた人々のため、嵐を静め、港に導かれるという恵みです。

 それぞれの組の人々が恵みを味わうことが出来たのは、彼らが苦難の中から助けを求めて叫んだからであり、そして、その声を主が聞いて、彼らを憐れまれたからでした。詩人が繰り返し、「主に感謝せよ、主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と詠っているとおり、彼らが救われたのは、実に神の一方的な、驚くべき恵み(Amazing Grace)だったのです。

 そして、新約聖書の信仰に生きる私たちも、主イエスを通して、信仰によってこの恵みに与ることが出来ます。主イエスは、大勢の群集を深く憐れみ、荒れ野においていろいろと教えられた後、彼らに食事を与えられました(マルコ福音書6章30節以下)。彼らは食べて満腹し、残り物で12籠が一杯になりました。また、悪霊に取りつかれ、墓場に縛られていた人を悪霊から解放し、家に帰らせなさいました(同5章1節以下、1章21節以下など)。そしてあらゆる病い、患いをおいやしになりました(同1章29節以下、2章1節以下など)。さらに、突風が起こり、舟が沈みそうになっているときに、風と湖を叱って凪にされました(同4章35節など)。

 私たちがそのような恵みに与ることが出来るのは、私たちにその資格や権利があるからではありません。一方的な神の恵みです。それは、誰も神の御前に誇ることがないためです(エフェソ書2章8,9節)。主が私たちをあらゆる苦しみ、煩いから贖い、救い出して下さったのは、その恵みに感謝し、御名を賛美する民、すなわち、その魂が主の恵みに対する感謝と喜びで満ち溢れ、霊とまことをもって主を礼拝する神の民を集めるためです。

 40~42節に、「主は貴族らの上に辱めを浴びせ、道もない混沌に迷い込ませたが、乏しい人はその貧苦から高く上げ、羊の群れのような大家族とされた。正しい人はこれを見て喜び祝い、不正を行う人は口を閉ざす」と記されていますが、富と力を持ち、あるいは悪をなす者は、神を呼び求めないので、その慈しみに与ることが出来ませんが、彼らも、道に迷い、貧苦に悩むとき、神に助けを祈り求める者となるでしょう。神は、この打ち砕かれ、悔いた心を軽しめられず(詩編51編19節)、彼らを高く上げ、繁栄を回復されるのです(サムエル記上2章7,8節)。

 「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と唱えつつ、今も私たちのために働いておられる主の慈しみに目を注ぎましょう。

  主よ、あなたは渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たして下さいます。私たちを閉じ込めようとする獄屋の青銅の扉を破り、鉄の閂を砕いて下さいます。御言葉を遣わして私たちを癒し、滅びから救い出して下さいます。嵐を静め、望みの港に導かれます。心から感謝のいけにえを献げ、その御業を語り伝え、喜び歌わせて下さい。 アーメン