「こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。」 エステル記7章10節

 王妃エステルが準備した2度目の酒宴に、ハマンと共に臨んだクセルクセス王は(1節)、前回同様、「何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう」と言います(2節、5章3,6節参照)。

 すると、エステルから思いがけないことが告げられました。「もし特別なご配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただき塔ございます。」(3節)というのです。

 3節後半の原文は、「私の求めに従って私の命を私に与え、また、私の願いに従って私の民を私に与えてください」(口語訳、岩波訳参照)という言葉遣いで、王妃エステルとユダヤの民は同一のもので、同じ運命にあるということを強調する表現になっています。

 ぶどう酒を飲んで上機嫌になっていた王は、その言葉をどんなに驚いたことでしょうか。さらにエステルは言葉を続け、「私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう」(4節)と言います。

 「私と私の民族は取り引きされ」というところで、王とハマンが舞台に引き出されます。これは、ハマンが、ユダヤ人絶滅を申し出て、その勅書を作るために銀一万キカルの賄賂を申し出たことを指します(3章8,9節)。

 そして、「滅ぼされ、殺され、絶滅させられ」というのは、勅書のままです(3章13節)。「私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう」とは、王が「奴隷として売られる」(アーバド)と聞いた言葉を、ハマンは、同音異義語の「絶滅」(アーバド)と勅書に記して、王を欺いたのだと仄めかします。

 「王を煩わすほどのことではない」というのは、「王を煩わすに足るような仇ではない」という言葉です。岩波訳は、「王を煩わすほどの艱難には当たりません」としています。「仇、艱難」は「ツァル(敵、かたき)」という言葉です。新改訳は「迫害者」と訳しています。

 つまり、ハマンが王に告げたような、ユダヤの民が奴隷として売られるというだけなら、王を煩わすこともなく、黙って我慢するのだけれども、黙っていられないのは、王を欺いて自分とその民族を絶滅させるということだからで、それによって王の受ける損失はとても大きいのだと訴える言い方です。

 王を欺いて、王妃エステルとその民族を絶滅させ、王に大きな損失を与えるこの「仇」は、王と王妃とすべてのユダヤ人の、共通の敵だというのですが、エステルは、このような正確な情報を、どのようにして入手したのでしょうか。背後に、エステルやモルデカイに心を寄せる侍従や宦官の働きがあって、ハマンと王の密談の内容を知らせたということなのでしょう。

 王妃の訴えを聞き、すっかりほろ酔い気分から覚めたクセルクセス王は、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」(5節)と尋ねます。王妃の言う「仇」、自分たちの共通の敵とは、どこのどいつなのかということです。エステルは、「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」(6節)と、明快に答えました。

 それで、ハマンは王と王妃の前で恐れおののきます。酒宴に出て来る前、自宅で妻たちから、「モルデカイはユダヤ人の血筋のもので、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただおちぶれるだけです」(6章13節)と言われた言葉が頭の中を巡っていたのかも知れません。

 王は、ここで初めて、ハマンの計画を正しく理解しました。そして、怒って立ち上がり、そのまま庭に出て行きます(7節)。怒りを鎮め、頭を冷やして考えようというのでしょうか。これまでの成り行きを思い起こし、情報を整理して、より良い判断を下そうとしたのでしょうか。

 それを見たハマンは、今のうちに王妃に命乞いし(7節)、王に口添えを頼もうと身を伸ばします(8節)。ちょうど王妃の長椅子に身を投げかけて懇願しているところに、再び王が戻って来ました。ハマンの姿を見た王は、「わたしのいるこの宮殿で、王妃にまで乱暴しようとするのか」と言います(8節)。ハマンの姿勢が王妃を暴行しようとしているように見えたわけです。

 ハマンは、王の実印としての指輪を預かり、政を行う首相です(3章1,10節)。そして、王の服を着、王の馬に乗ることを栄誉としていつも考えている人物です(6章8,9節)。それで、王妃に言い寄り、自分のものにすれば、クーデターは完成に近づきます(サムエル記下16章20節以下で、アブサロムがダビデ王の側女たちのところに入ったことを参照)。

 ハマンがそれを実際に行っていたわけではありませんが、クセルクセスは、ハマンはそういう人物だと判断したのです。「王妃にまで乱暴しようとするのか」という王の言葉を聞いた人々が、ハマンの顔に覆いをかぶせたというのは(8節)、王が不快に思う人物の顔を見ないで済むようにした、つまり、死刑が確定したということでしょうか。

 岩波訳は、「ハマンは失神した」と訳しています。その脚注に「別訳『彼らはハマンの顔を覆った』あるいは『ハマンの顔が覆われた』。6章12節には『頭を覆う』という表現があるが、おそらくこれとは意味が異なる。アラビア語の同様の比喩的表現から、『失神した』の意味に解した」と記されています。

 そのとき、宦官ハルボナが、「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。50アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています」(9節)と告げました。命の恩人モルデカイへの悪意までも知った王は即座に、「ハマンをそれにつるせ」(9節)と命じました。

 柱の高さは50アンマ、6階建てのビルに相当する高さです。どこからもよく見えたことでしょう。ハマンは、すべての者が自分に敬礼するので、思い上がっていました。そしてただ一人、自分に礼をしないモルデカイとその民族を根絶しようと企みました。その結果、首相の座を失うだけでなく、処刑されて誰からもよく見える高い柱の上に自分の愚かさをさらす結果となったのです。

 それは、私たちの罪の姿でもあります。かつて読んだ芥川龍之介の著書、「蜘蛛の糸」に登場するカンダタの、釈迦の垂らした蜘蛛の糸を独り占めしようとして、再び地獄に落ちていく姿に、自分自身を見る思いがしました。誰も、自分が何をしているのか知らず、その結果、どのような報いを受けることになるのか、分からないのです。

 しかし、罪深い私に代わって、主イエスが木にかけられ、その呪いをご自分の身に受けつつ、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成し祈られました(ルカ23章34節)。主イエスの死によって、私の罪は赦され、王の王、主の主なる神の怒りが治まったのです。今私たちは、神の子とされ、永遠の命に与っています。主の御名はほむべきかな。

 今日も、十字架の主を見上げ、その御足跡に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、愚かで罪深い私たちのために、主イエスが贖いの業を成し遂げ、救いの道を開いてくださったことを感謝します。私たちは今、主イエスが「わたしの教会」と呼ばれる教会の一員とされています。主の御心がこの地になりますように。主の御名が崇められますように。私たちを主の御業を行う道具、器として用いてください。今日も、全世界に主イエス・キリストの平和が豊かにありますように。 アーメン