「彼は燃やして主にささげる物を自分の手にささげ持つ。すなわち胸の肉に脂肪を載せてささげる。奉納する胸の肉は主の御前に奉納物とする。」 レビ記7章30節

 11節以下に、「和解の献げ物の施行細則」が記されています。これは、3章に記されていた「和解の献げ物」の細則ということになります。
 
 和解の献げ物は、「感謝の献げ物」として(12節以下)、また、「満願の献げ物」、「随意の献げ物」として(16節以下)、ささげられます。「満願」とは、神に願い事をして、その願いがかなったときにささげると約束する献げ物のことです。「随意」とは文字通り思いのままに自発的にささげる献げ物です。
 
 和解の献げ物は、3章で学んだとおり、献げ物のいけにえが、神と祭司と奉納者の三者で分かち合われ、そこで食されます。神は脂肪と血をとられます。3章11節には、脂肪のことを、「これが燃やして主にささげる食物である」と記されていました。祭司は胸と右後ろ肢をとり、残りの肉は奉献者が食べます。
 
 種々の献げ物の中で、奉献者が食べることが出来るのは、和解の献げ物だけです。これは、神と人が食事を共にして交わるという、喜びに満ちた意味があり、「和解の献げ物」という名前も、そうした内容からとられたものと考えられています。
 
 ヨハネ黙示録3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と記されています。主イエスを迎え入れる者と食事を共にするという約束が語られているのですが、それはまさに、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった主イエスを信じ、受け入れると、主との間に「同じ釜の飯を食う」という親密な交わりが開かれることを示しています。
 
 17節に、「しかしこの残りの肉は三日目には焼き捨てねばならない」とありますが、これは、動物の死体は三日目には腐敗が始まると考えられていたからです。三日目にその肉を食べたなら、それは「神への献げ物とみなされず、不浄なものとなる」と規定されています(18節)。これは、考えてみれば非常に意味深長な言葉です。というのは、主イエスは、十字架に死んで三日目、まさに「不浄なものとなる」、腐敗が始まるとされていたその日に、死を打ち破って甦られたからです。
 
 ところで、冒頭の言葉(30節)は、口語訳では、「主の火祭は手ずからこれを携えてこなければならない。すなわちその脂肪と胸とを携えてきて、その胸を主の前に揺り動かして揺祭としなければならない」と訳されていました。「その胸を主の前に揺り動かして揺祭とする」という言葉が、新共同訳で「奉納する胸の肉は主の御前に奉納物とする」という訳に変わっています。「揺り動かす」を「奉納」、「揺祭」を「奉納物」と変えているわけです。原文には、「揺り動かす」(ヌーフ)という言葉が用いられています。欽定訳聖書(KJV、NKJ)は「揺祭」と訳せる訳語(wave offering)を採用しています。
 
 以前は、「揺り動かす」というのを、前後に揺らすものと考えられていました。しかし、最近では、神に献上するという意味を表わすために、上に差し上げる動作を表わすものと解釈されるようになって来ました。それで、「奉納する」という訳語が採用されるようになったというわけです。
 
 「主の御前に奉納物とする」と言われている「胸の肉」は、31節を見ると、「アロンとその子らのものとなる」とされています。主にささげられたものが、祭司たちに下げ渡されるということになります。民の、神への感謝の献げ物が、祭司たちの生活を支える謝儀として、神から与えられているわけです。
 
 それを受けた祭司たちは、お与え下さった神に感謝すると共に、ささげた民に対して感謝するでしょう。こうして、神と民と祭司の間に、和解による感謝と喜びが巡ることになります。
 
 主よ、今日の御言葉から、あなたから頂いた恵みを証しをすることが、今日、感謝の献げ物を主の御前に奉納することではないかと教えられました。どうか私たちを聖霊に満たして下さい。聖霊の力を受けて、主の恵みを証しするものとして下さい。福音が前進しますように。主への感謝と喜びが広げられますように。 アーメン