「お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び、『われわれは自分の力でカルナイムを手に入れたではないか』と言う。」 アモス書6章13節

 預言者アモスは、繁栄に酔い、安逸をむさぼっているイスラエルの人々に、驕りを見ました(1節)。そこで、「カルネに赴いて、よく見よ。そこから、ハマト・ラバに行き、ペリシテ人のガトに下れ」と語ります(2節)。カルネは、シリアのはるか北方の町、ハマト・ラバはシリア中部、オロンテス河畔の町ハマトのことです。ガトは、記されているようにイスラエルの南西にあるペリシテの町です。
 
 北に、南に、これらの町を見に行け、というのは、サマリアだけが繁栄している町ではない、井の中の蛙になるな、ということでしょう。そして、北の二つの町はアモスの時代にアッシリアによって亡ぼされ、南のガトはその後、征服されていますから、あるいは、次はイスラエルだ、ということを含んでいるのかもしれません。
 
 そして、高慢によって思い違いしている様子を、12節に、「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛が海を耕すだろうか」と記しています。「馬が岩の上を駆ける」とは、お前はカモシカのつもりなのか、ということです。「牛が海を耕す」とは、お前は魚のつもりなのか、ということです。
 
 ひづめの割れていない馬は、岩の上を跳びかけることは出来ないし、力の強い牛も、海の中では役に立ちません。そのように、今のイスラエルは、神にとって思い上がりもはなはだしい状態で、何の役にも立たない、ということでしょう。
 
 その傲慢さのゆえに、「お前たちは裁きを毒草に、恵みの業の実を苦よもぎに変えた」(12節)と言われています。「裁き」とは、「公正」(ミシュパート)、「恵みの業」とは「正義」(ツェダカー)という意味の言葉です。公正と正義が毒されているところを、神がお喜びになるはずがありません
 
 冒頭の言葉(13節)に、「お前たちはロ・ダバルを喜び、『われわれは自分の力でカルナイムを手に入れたではないか』と言う」とあります。これは、イスラエルが戦いによってロ・ダバルとカルナイムを獲得したということです。
 
 ロ・ダバルはガリラヤ湖の南、ヨルダン川東岸の町です。カルナイムはガリラヤ湖の東35キロのバシャンにある町です。ギレアドの二つの町をシリアから奪還して、イスラエルは戦勝の喜びに沸いているのでしょう。「カルナイム」は、雄牛の角を意味していて、角は力や権威の象徴ということから、自分たちの力が発揮出来た、その力が証明されたと喜んでいるわけです。
 
 しかし、彼らが手に入れたのは「ロ・ダバル」です。「ダバル」は、「言葉、出来事」という意味、「ロ」は否定を表す意味の言葉です。つまり、言葉がない、モノがないということで、「無駄、理由なし」、また「空虚」という意味になります。新共同訳聖書には、「ロ・ダバル(空虚)」と記されていました。彼らの喜びは空しい、無意味だということを表わしているわけです。
 
 なぜ、イスラエルの勝利が無意味なのでしょうか。それは、「レボ・ハマトからアラバの谷に至るまで」(14節)、イスラエルを圧迫する一つの国=アッシリア帝国が、神によって興されるからです。「レボ・ハマトからアラバの谷に至るまで」というのは、ソロモンがその支配下に治め(列王記上8章65節)、後にヤロブアム2世がその領域を回復したイスラエルの全土を指しています。
 
 今、ギレアドの地で二つの町をシリアから奪還して小さな勝利に浮かれているイスラエルが、さらに強大なアッシリアの力の前に、その全土にわたって完全に打ちのめされてしまうことになるというのです。
 
 私たちの力が空虚なものに費やされるということにならないように、公正な裁きを行い、恵みの業の実を結ぶように、しなければなりません。それは、神の御顔を慕い求め、御前に謙り、その御言葉に喜んで耳を傾け、御心に従って歩むことです。
 
 すばるとオリオンを造り、闇を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の表に注がれる方、万軍の神なる主よ、御名が崇められますように。絶えず御言葉の光の内を歩ませて下さい。御心に従い、いつも主の御業に励むことが出来ますように。 アーメン