「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。」 詩編128編1,2節

 詩編128編は、文字通り127編の続編のような、主に信頼する者を祝福される主なる神への賛美です。127編では、主の働きなしに労苦する空しさが、その冒頭で語られていました。それに対して、この詩では、冒頭の言葉(1,2節)のように、主を畏れ、主に信頼してその道を歩む者の労苦は豊かに報われ、また家族に恵まれて繁栄すると(3節)、祝福が語られています。

 人は神に背いて罪を犯したため、地は呪われ、生涯、食べ物を得るために苦しむことになりました(創世記3章17~19節)。また、女性は出産のために苦しみを味わわなければならなくなりました(同16節)。労働も出産も、大きな苦痛を伴うものとなったわけですが、しかしながら、それはいずれも、本来は、神の祝福のもとにありました。神は、ご自分にかたどって人を男と女に創造されて(同1章27節)、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と祝福されました(同28節)。また、人に、エデンの園を耕し、守るように、その務めを与えられました。そして、園の木の実を食物とするようにされたのです(同2章15,16節)。

 ですから、出産と子育て、そして勤労は、神の祝福なのです。その祝福なしに生きるのは、神の御旨に添わない不完全なこと、127編の言葉で言えば、「むなしい」ということになります。即ち、主なる神は、私たちの人生を祝福に満ちたよいものとしてお与え下さったわけです。

 「シオンから、主があなたを祝福してくださるように」(5節)と言われるということは、私たちの祝福はシオン、エルサレムの平和と繁栄に関わりがあることになり、それで、「命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように」と祈られるわけです(5,6節)。であれば、122編6節以下と同様の願いが語られていることになります。

 詩人は勿論、神様の祝福がシオンの山、エルサレムの町に来なければ受けられない、エルサレム神殿の礼拝に参加すれば祝福が受けられる、などと言っているわけではありません。バビロン捕囚を経験した人々は、エルサレムの神殿や町の城壁が自分たちを守るわけではないことを、しっかりと学びました。127編で学んだとおり、主が建てて下さるのでなければ、主が守って下さるのでなければ、一切の労苦は空しいのです。ですから、主を畏れ、主の導きに従って歩む者の幸い、祝福が語られているのです。

 この詩では、主の道を歩むこととは、「都に上る」こと、直接的には、エルサレム巡礼をすることですが、その心は、主との交わり、主との結びつきを確認するということです。

 神は、独り子キリストを信じる者に永遠の命をお与え下さいました(同3章16節)。「永遠の命」とは、単に永遠に長生き出来るということではなく、交わりの豊かさが与えられることであり、それは、主イエスのゆえに互いに永遠の絆で結ばれることと教えられます。主にあって、愛する者と永遠の交わりに生きることが出来る、その交わりが死やその他の何ものによっても断ち切られることはない、ということです。

私たちにとって、誰より何より、主が私たちの内におられ、共にいて下さるのが、何よりの恵みです。ここに、祝福の基があります。主から、聖霊を通して神の愛が、平安が、希望が、喜びが、力が注ぎ与えられるのです。絶えず主を拝し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主なる神よ、御子キリストが私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪を担って下さいました。私たちが罪に対して死に、義に生きるようになるためです。どうか、御霊により、御言葉に従って主の御足跡に続いて歩ませて下さい。悪に打ち負かされず、祝福の基として、すべての人のために祝福を祈る者とならせて下さい。 アーメン