「わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。」 民数記8章18節

 8章には、「レビ人の清めの儀式」についての記述がなされています。レビ人は、祭司に仕え、臨在の幕屋での奉仕や神の箱の運搬などの務めに当たります。
 
 レビは、ヤコブ=イスラエルの三男でした(創世記29章34節)。父ヤコブは、レビについて、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」と祈っています(創世記49章5節以下)。
 
 それは、妹ディナのことでシケムの人々を殺し、町中を略奪するという事件を起こしたからです(同34章参照)。つまり、レビはとりたてて宗教的な人物であったわけではなく、むしろ、それとはほど遠い存在だったのです。
 
 レビの子孫にモーセとアロンがいて、レビ一族が神の幕屋で神に仕える仕事をする者とされたというのは、思いがけないことでした。それは、一方的な神の恵みでしょう。なぜ、ヨセフの一族ではなかったのでしょうか。それは誰にも分かりませんね。
 
 既に引退し帰国されていた一人の米国人女性宣教師が来日された際、当時福岡にいた私のもとを訪ねて下さいました。そのとき、「私が牧師になると思っていたか」と尋ねると、彼女ははっきり、「いいえ」と答えてくれました。誰が牧師になると思っていたかと改めて尋ねると、長男と4男の名前を挙げました。
 
 その見方は、決して奇妙なものではないでしょう。誰もが、そう考えていたのかも知れません。私自身、子どもの頃、牧師になるとは想像もしていませんでした。また、長男と4男は、二人とも牧師ではありません。人の見るところ、外面的な人の能力や資質などと、神の選びとは、必ずしも一致しないという、典型的な例ではないかと思います。
 
 神は17節で、「イスラエルの人々の内に生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのものである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしは彼らを聖別して、わたしのものとした」と語られていました。
 
 過越の時、エジプトの国の初子は、神の使いに打たれて死んだのに対し、イスラエルの長子は、その死を免れました(出エジプト記12章1節以下、29節)。その身代わりとして、小羊が屠られたのです(同3節以下)。つまり、イスラエルの長子は、羊の命をもって贖われ、神のものとなったというわけです(同13章2節、第一コリント書7章22,23節参照)。
 
 そうして神は、イスラエルのすべての初子の身代わりにレビ人を選んでご自分のものとされ、それは、屠られて祭壇にささげられるというのではなく、生きて神に仕える者とされたのです。
 
 しかし、神に選ばれれば、それでよいわけではありません。そのままで役に立つものではないのです。神は、「イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい」(6節)と言われました。そのために先ず、「罪の清めの水をふりかけ、身体全体の毛をそらせ、衣服を水洗いさせ」ます(7節)。それから、雄牛二頭とオリーブ油を混ぜた小麦粉を献げ物としてささげ、贖いの儀式を行います(8節以下、12節)。

 そして、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し(13節)、イスラエルの人々から区別すると、彼らは主のものとなります(14節)。そうして初めて、臨在の幕屋に入って、作業に従事することが出来るのです(15節)。
 
 あらためて、冒頭の言葉で「レビ人」とは、私たちクリスチャンのこと、イスラエルとはすべての人々と読みましょう。それは使徒ペトロが、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言っているとおり、そしてそれが、プロテスタントで語られている「万人祭司」ということだからです。
 
 私たちが選ばれたのは、それを誇るためではなく、すべての人々に神の恵みを報せ、またすべての人々に仕えて執り成し、祈りをささげるためです。絶えず主の前に進み、御言葉と祈りをもって主と交わり、その使命に励む者とならせていただきましょう。
 
 主よ、私たちはあなたに選ばれる取り柄など持ち合わせていません。ただ、その恵みに感謝し、喜びをもってお仕えするのみです。私たちは不束な僕、端女にすぎませんが、御用のために用いて下さい。御名が崇められますように。 アーメン