「ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。」 レビ記21章23節

 21章には、「祭司の汚れ」について記してあります。
 
 1節に、「親族の遺体に触れて身を汚してはならない」とありますが、これは、葬儀に参列することを禁ずる戒めです。死や遺体が、人に汚れをもたらす最大の要因と考えられていたようです(エゼキエル書44章25節、民数記19章11節以下)。5節の、「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたり」するというのは、哀悼の意を表す異教の習慣だったようです。ただし、父母や息子、娘、兄弟など近親の葬儀は、例外として許されました(2,3節)。
 
 ところが、「聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者」(10節)、即ち選ばれた大祭司は、「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」(11節)と定められています。民の代表として聖所で仕える者が、汚れによって職務が全っとう出来なくなることを禁止し、どんなときでも自らを清く保つという模範を示すことが求められたのです。
 
 神の定めといえば、守るほかないのかもしれませんが、人の命を限りあるものとし、その死を悼む思いを人の感情の中に作られたのも神であれば、葬儀を行い、哀悼の意を表すことを禁ずるというのは、腑に落ちるものではありません。
 
 主イエスが、ベタニアで兄弟ラザロの死を悼んでマリアが泣いているのを御覧になって激しく心を揺さぶられ、ご自身も涙を流されました(ヨハネ福音書11章35節)。その後、ラザロを生き返らせて、御自分が人に命をお与えになるメシアであることを示されます(同38節以下)。主イエスにとって、死は、触れてはならない汚れというのではなく、最後に神の力によって打ち破られるべき敵なのです。
 
 17節以下には、先天性のものか後天性のものかを問わず、障害のある者は誰も、祭司職に就くことを禁ずる規則が記されています。献げ物が「無傷」のものでなければならないように(1章3節など)、それを神にささげる祭司も無傷でなければならないと考えるわけです。
 
 冒頭の言葉(23節)は、障害を「汚れ」と考えていることを示しており、それゆえ、聖所の中に入り、祭壇に近づいて神を礼拝する場所を汚してはならない、というわけです。「障害」について、18節以下に10ほどのケースが挙げられていますが、後期ユダヤ教においては、これを142にも拡大したと言われます。
 
 このような規定があるので、「生まれつき目の見えない人」を見かけたときに(ヨハネ福音書9章1節)、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(同2節)という質問が、弟子たちの口から出て来るのです。
 
 それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)とお答えになられました。
 
 弟子たちは、障害の原因が誰の罪かと尋ねたのですが、主イエスは、その障害が罪から生じたという考えを明確に否定して、神がその人に障害をお与えになった真の目的を示されたのです。即ち、生まれつき目が見えないというその障害は、神の業が現れるためにその人に与えられた神の賜物だと言われたわけです。
 
 即ち、目の見えない人にとって、その障害が、神から遠ざけられる、まさに文字通りの「障害」なのではないこと、むしろ、神が彼に目を留め、彼を通して神の御業が表わされるための賜物なのです。それは、世9羽の記事においては、主イエスが彼に近づいてその目に触れ、シロアムの池に遣わしてその目を癒されるという形で表わされました。
 
 その意味で、目の見えない方々が、「目が見えないことは不自由はあるが、決して不幸ではない。むしろ、神を知ることが出来たので、目が見えなくてよかった」と言われることは、晴眼者の私には味わえない神の恵みを証しして下さっているのです。

 主よ、御子イエスを遣わして、文字に縛られて人を裁き、不自由にする心から、私たちを解放して下さったことを感謝します。あなたが創造されたものはすべて、はなはだ善いものであることを、いつも教えて下さい。表されようとしている神の御業を見落とし、見逃すことがありませんように。 アーメン