寺園喜基先生が、西南学院大学神学部教授として最後の講義に臨まれました。先生は、神学部を卒業された後、九大大学院で学ばれ、そしてドイツに留学されました。

帰国後、九大の助手を務める傍ら、1973年から西南神学部の非常勤講師として、教義学、組織神学を講じて来られました。司会をされた片山先生によれば、西南神学部の非常勤講師を務める傍ら、九大でアルバイトしていたと言いたいということでした。案外、それが寺園先生の思いだったかも知れません。

私も、1984年に組織神学、85年に組織神学特講を受講させていただきました。御他聞に漏れず、出来の悪い学生でした。

その後、98年秋に九大を退き、西南神学部教授となられました。そして、院長、理事長職をも務めて来られました。

最終講義は、西南学院度ドージャー記念館2Fチャペルにおいて、一般公開で開かれました。講義のテーマは、『バルト神学の根本問題』です。

少し、先生の講演から引用します。

「神学(Theologie=theos(神)+logos(言葉))という言葉が『神を語る』ということを意味しているように、神学の課題とはまさしく『神を語る』ことです。では、神を語るとはいかにして可能なのでしょうか。

・・・ バルトは、『神学の課題としての神の言葉』(1922)において、神を語ることが神学の必然的な課題であり、同時にまた人間にとっては不可能な課題である、ということを確認しつつ、神についてはただ神ご自身が語ることが出来る、という主張をします。では、この神ご自身が神を語るということは如何なることかと問うなら、イエス・キリストが神ご自身の語り、『神の言葉』である、と答えます。ここにおいて、神学の出発点が示されています。即ち、神学の出発点は『神の言葉』としてのキリストの出来事であり、神学の課題はこれを語ることである、という認識に立ちます。

・・・ バルトの『教会教義学』には太い背骨のようなものが貫いています。それは、神が人間と共にいるという神の約束・契約(神論)、この契約を実現する外的な条件としての人間の創造(創造論)、この契約を人間の罪にも拘わらず成就ずる、和解の出来事としてのイエス・キリストの歴史(和解論)というものです。この和解の出来事に基づいて、『神我らと共に』があるのです。

・・・ この『我ら』は、これを信じ受領する者のみを意味していて、神はただ神を信じる者とのみ共にいます、ということではありません。なぜなら、『神我らと共に』において何よりも先ず本質的なことは、これが神についての、神の存在と働きについての表明なのだからです。

・・・ 神の存在と働きが先行する限り、この『我ら』は、その事実を未だ知らず、それゆえ知るように呼びかけられている、広い世界に向かっても開かれているのです。従って、この『神我らと共に』の『我ら』は宣教の課題として、信仰受領者の群れの中に留まらず、世界へと開かれているのであります。
そしてさらにバルトにおいては、この『神我らと共に』はインマヌエルの翻訳であり、インマヌエルはイエスの『名』の言い換えなのです。即ち、イエスが『我らと共にいます神』なのです。『イエスが我らと共にいる』ことによって、『神が我らと共にいる』のです。

・・・ バルトの『イエスと共に』従って『神と共に』という主張は、『イエスならざる者と共に』いることは『神ならざる者と共に』いるという帰結になります。これは当時のドイツにおけるヒトラーの神格化とナチス国家への宗教化への批判原理となりました。教会闘争の道標となったバルメン宣言(1934年)はバルトが寄贈したのですが、その第1項では、次のように言われています。

『聖書において我々に証しせられているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神の子の唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかという誤った教えを、我々は退ける。』
これは、信仰成立の根拠と政治的態度決定の根拠とが同一であるということを示しているのであります。

バルトはキリスト教の教えを『インマヌエル・神我らと共に』の事実として総括しました。そして、それをイエス・キリストの名と同定しました。イエス・キリストの名はその生涯・十字架・復活の出来事を内実としています。

この出来事が示していることは、イエスは自分の罪のゆえに苦しみ死んだのではなく、他者のために苦しみ死んだということであり、しかも同時に、それは神ご自身の事柄であるということです。神はご自身の苦しみを苦しみ、ご自身の死を死んだということではありません。神は人間の苦しみを引き受け、人間の死を引き受けることがお出来になったのであります。それは、神が生ける、愛において自由な神だからであります。私たちは、ここに、『神我らと共に』を支える、神の深みの次元があることを見るのであります。・・・」

 私のような浅学の徒のことを十分ご配慮下さって、とても分かり易い講義でした。


この講義に先立ち、リコーダー・カルテットによる賛美が神にささげられました。
 YouTubeにアップロードした動画をご覧下さい。
手持ちのデジカメで撮ったので、画面が暗く、音質も悪くて御免なさい。

 

寺園先生の写真も撮ったのですが、ウデが悪過ぎて、ここに紹介出来ません。平にご容赦を!