「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」 出エジプト記19章5節

 1節に、イスラエルの民が、「エジプトを出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」とありますが、「三月目のその日」は、原文では「第三の新月」という言葉です。1月15日に出立していますので、それから第三の新月は、4月1日にということになります。
 
 彼等はレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、山に向かって宿営しました。その山が18節のシナイ山のことです。ただ、シナイ山の場所は諸説あります。伝統的には、シナイ半島南方にそびえる「ジェベル・ムーサ(モーセの山の意)」(標高2,273m)であろう、と考えられて来ました。
 
 モーセが山を登って行くと、主なる神が彼に語りかけられました(3節)。神は、イスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放し、そして、「鷲の翼に乗せて」シナイ山のふもとまで連れて来られました(4節)。
 
 同様の表現が申命記32章11節にあり、「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」と記されています。ここでは、神を、雛を養い育てる鷲に見立てています。巣を揺り動かし、雛の上を飛び翔って、自らの翼で飛び立つように促し、上手に飛べずに墜落しそうになるときは、雛の下でその羽を広げて受け止め、翼にのせて運ぶというのです。また、母鳥の大きな翼は、雛の避難場所で、その翼の下で雛を守ります。
 
 イスラエルの民は、気がついたらシナイ山の前に宿営していて、何の苦労もなかったというわけではありません。むしろ、苦労の連続でしたが、どんな時にも神が彼らの避け所となり、恵みを与え、無事シナイ山まで連れて来られたのです。
 
 その恵みを受けたのは、冒頭の言葉(5節)のとおり、民が主の御声に従い、その契約を守ることを通して、神の宝となるためです。ここで神は、私たちのことを「わたしの宝」と呼んで下さいます。イザヤ書43章4節の、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し・・・」という言葉も、似たような消息を示していると思います。自分で自分のことを宝と主張したり、自分を価高い存在というのではありません。神がそう表現して下さるのです。
 
 この宝は、いつも宝箱に納められていたわけではありません。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の家で苦しみ、呻き声を上げていました。神は民の苦しみに目を留め、その呻きを聞いて、救い出して下さったのです。
 
 それは主イエスがルカ福音書15章のたとえ話を通して語られた神の姿そのものです。神は、迷子になった一匹の羊を捜し回る羊飼いのように、なくした1枚の銀貨を捜す女のように、そして、親不孝の弟息子を待ち続け、ぼろぼろになって帰ってきたら最上のもので喜び祝う父親のように、そうするのが「当たり前ではないか」と言って無限の愛をイスラエルの民に、そして私たちに注いで下さるのです。
 
 神が私たちを宝と言われるのは、宝箱に陳列しておくためではありません。自分たちが他の人々とは違う、特別な存在であると誇らせるためなどではないのです。神は、祭司の王国の聖なる国民として、神と世界中の人々のために執り成し、そして、御言葉に聞き従うように語り広める使命を委ねるために選ばれました。「世界はすべてわたしのものである」と言われているのは、神の御心が全世界に伝えられるために、私たちが神によって選ばれたということなのです。
 
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)。

 主よ、私たちは何者なので、御心に留めて下さったのですか。私が何者なので、これを顧みられるのですか。その限りないご愛の故に、ただただ驚くばかりです。心を尽くして感謝をささげ、喜びをもってその驚くべき御業を語り伝えましょう。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン