「ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」 出エジプト記5章2節

 モーセとアロンは、エジプトのファラオのところに行き、イスラエルの神、主を礼拝するため、イスラエルの民を去らせよと告げました(1節)。それに対する答えが、冒頭の言葉(2節)です。先に神はモーセに、「わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう」(4章21節)と語っていました。ということは、このファラオの反応は、折込済みというところでしょうか。
 
 モーセらは、礼拝をささげなければ、神が疫病か剣で私たちを滅ぼされるだろう(3節)と言います。これは、「私たちは神に滅ぼされたくはないので、礼拝しに荒れ野に行かせてくれ」とファラオに頼む言葉です。しかし、神がモーセに告げよと言われたのは、「わたしの子をさらせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう」(4章23節)という言葉でした。
 
 つまり、ファラオの長子の命に関わると警告することだったはずです。あるいは、自分たちが死ねば、エジプトの不利益になるだろう、というつもりだったのでしょうか。あるいはまた、自分たちを殺す疫病と剣がエジプトにも影響を与える、と言いたかったのでしょうか。
 
 いずれにせよ、二人に耳を貸すつもりのないファラオは、民を追い使う者と下役に、労働条件を厳しくし、「神を礼拝させよ」という偽りの言葉に心迷わさせないようにせよ、と命じます(6節以下)。それで、民を追い使う者は、早速イスラエルの民にわらの配給を停止してそれを自己調達させ、なおかつ、造る日干しレンガの数を減らすな、と命じます(10節)。
 
 それを聞いた下役の者は、それは無茶だと抗議しますが(15,16節)、ファラオは民を怠け者と決めつけ、厳しく語るだけです(17,18節)。下役とは、エジプトの手先となるよう懐柔されたユダヤ人で、民を分断し、エジプトに協力する方が得だと思わせる役目を担わされています。今回のファラオの措置は、同胞とエジプトの間で彼らを板ばさみにするようなことでした。
 
 そこで彼らは、モーセとアロンに抗議します(21節)。それを聞いたモーセは、主のもとに行き、「なぜ、この民に災いをくだされるのですか」と訴えます。自分たちが行かなければ、ファラオのこの措置はなかったと言いたいのでしょうけれども、しかし、神は既に、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った」と言われ(3章7節)、それゆえ、モーセをファラオのもとに送られたのです。
 
 確かに、ファラオの心を頑なにして、モーセに従わせなかったのは神なのかもしれませんが、それで、神は民に災いを下されようとしているのではなく、さらに苦境に立たされた民に寄り添ってその苦しみを見、その叫びを聞き、痛みを知って、彼らをエジプトから導き出して下さるお方でしょう。
 
 ファラオがモーセに、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことを聞かねばならないのか」と言いましたが、モーセにとって、主とは一体何者なのでしょう。まさに、モーセ自身がこの問いに答えを出す必要があるのです。だから、モーセとファラオのこれからのやり取りは、主とは一体何者なのかということを、机上で学ぶのではなく、心と体で知るようにされる神の導きに従ってなされるのです。
 
 ところで、あなたは「主とは一体何者なのか」という問いに、どのようにお答えになりますか。

 主よ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。誰があなたの定めを究め尽くし、あなたの道を理解し尽くせましょう。あなたを畏れ、御前に謙ることを学ばせて下さい。あなたはすべてのものを創造され、御手の内に守られ、やがて天に迎えられるのです。栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン