「わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。」 ゼカリヤ書2章9節(口語訳・新改訳では2章5節。新共同訳聖書の2章1~4節が、口語訳などでは1章18~21節となっているためです)

 1~4節で、まず四本の角の幻について示されています。「角」は、力や権威を象徴するもので(詩編75編11節、89編18,25節など)、イスラエルを苦しめ、ちりぢりにした四方の敵の力を表わしています。次に、角を切り倒す4人の鉄工が示されます。これは、イスラエルを苦しめた敵が、神によって打ち砕かれるという預言です。
 
 ついで5節から、測り縄を手にした御使いを見ます。彼は、新しいエルサレムを測るために出て行きます。すると別の御使いが現れ、「若者」と言われたゼカリヤに対して、「エルサレムは人と家畜に溢れ、城壁のない開かれた所となる」と告げました(8節)。
 
 そこで、この幻に基づく勧告が続きます。10節で、「急いで北の国から逃れよ」と言われ、11節では、「シオンよ、逃げ去れ。バビロンの娘となって住み着いた者よ」と言われます。既にバビロンはペルシアによって滅ぼされてしまって、ユダヤの民には帰国が許されているのに、なおバビロンに留まっている人々が少なくありません。
 
 エルサレムが滅ぼされ、捕囚となって50年が過ぎ、そして、バビロンが倒されて帰国が許されてから既に20年近くが経ちました。捕囚第1世の生存者はわずかでしょう。戻ってきた主力は2世、3世です。3世にもなると、イスラエルとバビロン、どちらが故郷か分からないでしょう。
 
 そして、荒れ放題の地に戻ってそこで生活するのは、多くの苦難が伴います。自分たちの知らないところで苦労するくらいなら、バビロンにいるほうが良いと考える捕囚2世、3世が大勢いたわけです。だから、神がこれらの幻と預言を通して、民の帰国を促しておられるのです。
 
 前述の8節で、エルサレムが人と家畜で溢れるのは、帰国する民が多くあることに加え、「その日、多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり」(15節)とあるように、異邦人が神の民となるからでした。
 
 そして、エルサレムは城壁のない開かれた町となりました。多くの民がやってくることで、町が飛躍的に拡大してしまうことでしょう。四方の敵を平らげて下さった神がおられるので、城壁は必要ないのです。
 
 かつて、エルサレムの町は堅固な城壁で守られていましたが、強大な敵の前に、その城壁は町と民を守ることが出来ませんでした。神が味方して下さらなければと言いますか、神を敵に回してしまったので、町を守ることが出来なかったのです。
 
 冒頭の言葉(9節)にあるとおり、今、神ご自身が火の城壁となり、町にその栄光を現して、お守り下さるというのです。それは、昔イスラエルの民がエジプトを出たとき、夜は火の柱となって民を照らして導かれたこと(出エジプト記13章21,22節)、また追ってくるエジプト軍から民を守り、エジプト軍をかき乱されたこと(同14章19,20,24節)などを思い出させます。

 現在イスラエルは、国際社会の非難にも拘らず、東エルサレムやヨルダン川西岸地区に分厚いコンクリートの壁を築いています。それをパテスティナ側は、一方的に国境線を固定化するものだと反発し、その結果、イスラム原理主義ハマスがパレスティナ議会(評議会)選挙で圧勝しました。そして、ハマスとイスラエルの衝突で、双方の平和が脅かされています。こうしたことは、およそゼカリヤの語っているエルサレムの都の姿などではありません。

 先に教育基本法を改正し、次は憲法を改正して戦争が出来る「美しい国」になろうと躍起になっていた自民党政権は、3年前の参議院選挙で敗れ、そして、今衆議院選挙で大敗を喫しました。あのまま突き進んでいれば、我が国はどうなったことでしょう。

 我が国を平和の内に守って来たのは、自衛隊や在日米軍の力ではありません。大東和戦争に敗れ、非戦を誓って制定した日本国憲法によって、国際紛争に巻き込まれずに、平和な国として認められ、受け入れられて来たのです。

 しかしながら、翻って私たち自身はどうでしょうか。火の城壁として私たちを守り、私たちの内にあって栄光となられる主にいつも依り頼んでいるでしょうか。主を信頼して平安と喜びが心に湧き上っているでしょうか。
 
 御言葉を信じる信仰にはっきりと立たせて頂きましょう。主の栄光を仰ぎましょう。

 主よ、あなたを信頼します。私たちをお守り下さい。エルサレムに平和を与えて下さい。武器や壁に頼るのではなく、まことの神を信頼して、四方の民と和合することが出来ますように。我が国も、平和憲法をもつ国として、また唯一の被爆国として、武力なき国際平和を訴え続けることが出来ますように。 アーメン