「お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。」 エゼキエル書35章11節

 35章には、セイル山に対する託宣が記されています。セイル山とはエドムのことです(創世記36章8節)。エドムはイスラエルと国境を接する死海の南東部、セイルの山地に住み、イスラエルとは様々なときに相争ってきました。
 
 既に25章12節以下に、エドムに対する裁きが語られておりましたが、ここに改めて預言がなされています。それは、彼らがバビロン軍の尻馬に乗ってエルサレムを滅ぼすことに加担したからであり(5節)、隙あらばイスラエルをおのが領土にしようと狙って(10節)、略奪を繰り返しているからです。これらの表現から、神は神に背き続けていたイスラエルを裁くために、バビロンを御自分の器として用いられますが、エドムは神に選ばれた器ではなかった、ということが示されます。
 
 神は冒頭の言葉(11節)のとおり、彼らの憎しみと妬みによる悪行に応じ、エドムに対して同じように行うと言われます(11節)。エドムがイスラエルに対して敵意、憎しみを持っていることは理解出来ます。もともとはイサクの双子の兄弟エサウとヤコブの問題でした。
 
 兄エサウ(=エドム)は弟ヤコブ(=イスラエル)によって長子の権を奪われ(創世記25章27節以下)、次いで神の祝福を奪われました(27章)。エサウはヤコブを必ず殺すと決意する事態になりました(27章41節以下)。その後、兄弟は和解したようですが(33章)、イスラエルに対する憎しみが絶えず心の底に宿っていたのではないでしょうか。
 
 そして、ダビデ・ソロモンの時代、イスラエルは銅山と紅海(アカバ湾)に出る港を手に入れるためにエドムを侵略し、支配しました。列王記上9章26節にエツヨン・ゲベルという地名が出て来ますが、ここには銅の精錬所がありました。ここで青銅を作り、神殿や宮殿の建築に用いたのです。また、ソロモンはここに良い港を作りました。
 
 かつて出エジプトの民がエジプトから約束の地カナンに入るためにここを通ったことがあり、陸路でも重要な宿営の町でした(民数記33章35節)。ですから、ここは陸と海の要となる町だったわけです(新共同訳聖書後部の地図「2.出エジプトの道」も参照)。このような侵略と支配に対してさらに憎悪が深まったことでしょう。
 
 ですから、バビロンがイスラエルに攻めてきたとき、エドムはバビロンの側についてエルサレム攻略を行ったわけです。それによって、積年の恨みを晴らしたかったことでしょう。けれども、そのような憎しみや妬みは、良いものを産み出しません。絶えず争いを産み出します。それは結局、自らの滅びとなってしまうのです。
 
 「9.11」同時多発テロ以降のアメリカとアフガン、イラクの戦争、現在にも続く紛争状態が、それを雄弁に物語っています。やられたらやり返せという論理は分かりやすいけれども、そこに真理はありません。報復に報復が繰り返されるだけです。勿論、神がそれを喜ばれるはずがありません。戦争によって神の祝福を勝ち取ることは出来ないのです。
 
 今年4月に北朝鮮が通信衛星打ち上げと称して大陸間弾道ミサイルの発射実験を行い、国際社会の非難を受けるや、六カ国協議をボイコットし、核実験、ミサイル発射実験を強行するなど挑発行為が繰り返されています。それを受けて、国連安保理で制裁を強化しようとしています。ただ、制裁をより強化するというやり方だけでは、北朝鮮を徒に追い詰め、軍が暴走して核兵器を使用するというような最悪のシナリオを選択することにもなりかねません。
 
 北朝鮮が核開発を放棄し、日本が求める拉致被害者を解放するという結論に導かれるため、北朝鮮を六カ国協議のテーブルに着かせ、神がその協議を導いて、よい結論に至るための道筋がつけられることを祈り願いたいと思います。
 
 主よ、どうかキリストにある平和が、全世界にありますように。キリスト教会が全世界の平和の道具として、主に用いられますように。私たちの心の中から、憎しみや妬みなどが追い出され、キリストの愛と平和が心を満たしますように。 アーメン