「ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。わたしはお前に火をつける。火はお前の中の青木も枯れ木も焼き尽くす。」 エゼキエル書21章3節(21章1~5節は、口語訳聖書、新改訳聖書では20章45~49節となっています。)

 主の言葉がエゼキエルに臨みました。それは、「ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。わたしはお前に火をつける。火はお前の中の青木も枯れ木も焼き尽くす」(3節)という言葉です。これは、イスラエルの人々にとって、どのような意味を持つ言葉だったのでしょうか。
 
 エゼキエルは、これはイスラエルの人々に理解されないだろうと考えたようです。だから、「彼はことわざを語る者にすぎないではないか」と言われたと神に訴えています(5節)。それというのも、ネゲブには「森」と呼べるところはないからです。ネゲブは、イスラエル南部の乾燥した荒れ地です。ですから、そこで、山火事など起こりようがないとイスラエルの人々は考えるでしょう。そして、神がそのようにしてイスラエルを裁くと言われても、それは無意味なことだ、と思うでしょう。だから、エゼキエルはもう少し丁寧な説明が必要だと考えたのです。
 
 そこで、主は6節以下の解説をお与えになりました。ネゲブの森とは、エルサレム、イスラエルの地のことだと。火で焼き尽くすとは、剣で滅ぼすという意味だと。そもそも、ソロモンがエルサレムに建てた王宮は、「レバノンの森の家」と言われていました(列王記上7章2節)。それは、レバノン杉がふんだんに用いられているからです。そうしたことから、「ネゲブの森」という表現が出て来たのかもしれません。
 
 しかし、神はなぜ、最初からエルサレムを剣で滅ぼすと言われないで、ネゲブの森を火で焼くと言われたのでしょうか。それは、もはや神がイスラエルの民に理解されることを求められないということではないでしょうか。けれども一方、神の言われることをきちんと聞けば、解説されなくても分かるはずだ、と考えておられるようにも思います。
 
 神が「ネゲブ」と言われたとき、それは固有名詞としてではなく、一般名詞の「南」という意味で言われていると考えることも出来ます。実は、2節の「テマン」も「ダロム」も南という意味です。口語訳では、どちらも南と訳されています。そして、「ネゲブ」も南という意味なのです。つまり、同じ意味になる言葉を三つ重ねて、「南」を強調しているのです。イスラエル、エルサレムはバビロンの南にあります。神は、北から南に災いを送る、つまり、バビロンからイスラエルに災いが来ると示されているわけです。
  
 そして、ネゲブが荒れ野なのは、雨が少ないからです。そして、水源がないのです。それと同様に、イスラエルが亡国と捕囚の憂き目を見るのは、真の水源である神から離れてしまったからです(エレミヤ書2章13節、17章12節、ヨハネ福音書4章14節も参照)。もしも、神との契約が守られていたなら、イスラエルの民が神との交わりを大切にしていたなら、彼らが枯れ木になることはなかったでしょう。それこそ、豊かな森を形成し、多くの命を育んでいることでしょう。
 
 これは、私たちの信仰生活を反省させられるところです。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者に道にとどまらず、傲慢なものと共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われます(詩篇1編1~3節)。主イエスを信じ、主が語られる言葉に留まり、そこに堅く立たせて頂きましょう。

 主よ、どうか私たちを祝福して下さい。祝福の地境を広げて下さい。あなたの御手であらゆる災いから守り、すべての苦しみを遠ざけて下さい。あなたを信じ、あなたの御言葉にお従いします。 アーメン