「主よ、わたしたちにふりかかったことに心を留め、わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。」 哀歌5章1節

 神の選びの民イスラエルに神の裁きが臨み、嗣業の地は異邦人の支配を受け(2節)、自分たちのものをお金を払って買わなければならなくなりました(4節)。絶えず、飢えと病と剣の危機が待ち受けています(9,10節)。女性は辱められ(11節)、長老たちは邪魔者にされ(12節)、若者や子どもは重労働に駆り出されています。実態を知っているわけではありませんが、終戦直後の満州は、そういう有様だったのではないかと思います。
 
 18節に、「シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く」とありますが、シオンの山はエルサレムの都が置かれたところで、そこには壮麗な王宮と神殿が建てられていました。それが荒れ果てたまま放置されているので、狐の住処になったということです。
 
 それは、「エジプトに手を出し、パンに飽こうとアッシリアに向かった」(6節)という父祖たちの罪の結果です(7節)。すなわち、バビロンに対抗するためにエジプトやアッシリアを頼りとし、異教の偶像を拝んだので、主なる神の怒りを買ったのです。哀歌の作者はしかし、その罪は一人父祖のものというのではなく、16節に、「いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ」と語って、それが現世代の自分たちの罪でもあることを、認めています。
 
 それゆえ、「父祖は罪を犯したが、今はなく、その咎をわたしたちが負わされている」(7節)というのです。
 
 イスラエルの民が被った災い、その辛く悲しい状況を、自分たちの罪の報いであると認めた上で、だからこうなったのは仕方がない、イスラエルの再興を諦めるなどというのではありません。この状況を心に留めて下さい、わたしたちに目を留めて下さいと、作者は願い訴えているのです(1節)。ダビデ王朝は倒れ、国は滅びてしまいました。けれども、イスラエルの神、主こそ、まことの王であり、その支配は永遠に続きます(19節)。そこに、作者をはじめイスラエルの残された者たちの希望があります。その希望の上に、もう一度国を建てたいと願っているのです。
 
 だから、「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」(20節)と訴え、「主よ、御もとに立ち帰らせてください、わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください」(21節)と、その憐れみに縋っているのです。
 
 さて、そのような日は来るでしょうか。神がイスラエルに目を留めて下さるでしょうか。それとも、激しい怒りによって永久に見捨てられてしまうのでしょうか。苦しみの最中にあるとき、「朝の来ない夜はない、トンネルの向こうに明るい光がある」などと言われても、本当にそうだろうか、この夜はわたしの最後ではないか、深い洞窟の迷路に迷い込み、もはや二度と日の光を見ることはないのではないか、と思ってしまいます。
 
 あの十字架の上で主イエスが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と叫ばれた言葉を思い出します。この主イエスの激しい叫びを、神は聞き逃されるでしょうか。もう一度、大声で叫ばれて、そのまま息を引き取られたとき(37節)、誰もが、この叫びに父なる神が答えて下さらなかった、主イエスは見捨てられてしまったのだ、と思ったことでしょう。
 
 けれども、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われた神は、放蕩三昧に身を持ち崩した息子でさえも駆け寄って喜び迎えて下さる憐れみ深き父です(ルカ15章11節以下、20,22節)。必ず私たちの状況に目を留め、そこから救い出して下さると信じます。だからこそ、この苦しみがいつまで続くのか、と尋ね、心を留めてください、立ち帰らせてください、と訴えるのです。主によって、そうすることが許されているのです。

 主よ、ヤベツが祈ったとおり、どうか私たちを祝福して下さい。祝福の地境を広げて下さい。御手を私たちの上に置き、あらゆる災いから護り、すべての苦しみを遠ざけて下さい。そして、一切のことを御心のままに行って下さい。御名が崇められますように。 アーメン