「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」 イザヤ書46章4節

 1節に、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」という言葉があります。ベルとは「主」という意味で、バビロンの主神マルドゥクのことです。ネボとは「告知者」という意味ですが、主神マルドゥクの子で、バビロンの守護神とされています。だから、ナボポラッサル、ネブカドネザル、ナボニドスなど諸王は、ネボ神の名を冠しているわけです。

 「かがみ込み」、「倒れ伏す」とは、これらの神々が威厳を失い、滅びるさまを表しています。バビロンが隆盛を極めていたころ、春の新年祭に、これらの神の像が担われて町を行進していました。すなわち、これらの神々によってバビロンに神の栄光があらわされ、勝利と繁栄が授けられたと考えられていたわけです。
 
 けれども、勝利と繁栄をもたらした神々が、いまや「重荷となって疲れた動物たちに負わされる」とまで言われます。ところが、ペルシアの王キュロスの手からこの神々の像を守るために、「獣や家畜に負わ」せて町から運び出さなければならなくなったのです。つまり、神々が町を守るどころか、人々に守られなければならないというわけです。しかも、それが重荷となって動物たちが疲れ果て、結局、運び出そうとした人々も捕えられてしまうのです(2節)。
 
 それに対して主なる神は、ヤコブの家、イスラエルの家の残りの者に向かって、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」と言われます(3節)。「生まれた時から負われ」とは、イスラエルの民を「鷲の翼に乗せて」(出エジプト記19章4節)エジプトからシナイ山へ、そして約束の地カナンへと運ばれたことを表していると言ってよいでしょう。
 
 そして、誕生のときを描いたので、続く4節では、「同じように、わたしはあなたたちの老いるまで、白髪になるまで、背負って行こう」と、人生の終わりを描きます。こうして神は、イスラエルの民を最初から最後まで、変わることなく守り支えて下さるというのです。
 
 「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とは、力強い神の御心の宣言のようです。4節には、「わたし」(アニー)という言葉が、計5回出て来ます。ヘブライ語の動詞は、人称によって語尾が変化するので、代名詞をつけなくても意味は十分通じます。それをあえて、人称代名詞を用いているということは、そこに強調点があるということです。つまり、イスラエルを造り、それゆえに担い、背負い、救い出すのは、主なる神のほかにはいないということであり、主なる神こそが唯一の主、主の主、王の王なるお方であるということです。
 
 ここに、人を造られた神と、人によって造られた神々の違いが明確に示されます。人を造られた神は、ひとを担い、背負い、救い出されます。一方、人によって造られた神は、命がありませんから、人や動物たちによって運ばれなければなりません。ですから、他者を救うことなど、出来るはずもないわけです。
 
 ここに、人の手によって造られ、人に運んでもらわなければならない偶像の神と、目には見えませんが、人を造り、持ち運び、救って下さる主なる神とが、目の前に置かれています。あなたはどちらを選びますか。どちらがよいでしょうか。
 
 かつてイスラエルの民は、まことの神を捨てて、異教の偶像を祀り、礼拝を捧げてきました。それで神の怒りを招き、バビロン捕囚の苦しみを味わうことになったのです。
 
 イザヤは、ここにもう一度、まことの神に聴くように、その御声に従うように、そのためにまず罪を悔い改め、神の恵みを思い起こせと、憐れみをもって語っているわけです(8,9節)。

 主よ、あなたの憐れみのゆえに感謝致します。いつも最善をなして下さる神様、あなたを礼拝します。あなたの計画は必ず成り、主が望まれることはすべて実行されるからです。絶えず御言葉に聴きしたがうことが出来ますように。 アーメン