「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」 イザヤ書11章3節

 1節に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」とあります。「エッサイ」は、ダビデ王の父親の名です。「ダビデの株」と言わずに「エッサイの株」と言われているということは、ダビデ王朝が切り倒されて、エッサイ家が切り株になるということです。

 「ひとつの芽が萌えいで」とは、切り株から新しい芽が出て来るということで、かつて、エッサイの家の最も小さい子どものダビデが王として選び出されたように(サムエル記上16章11節以下)、その子孫の中から新しいダビデが選び出されるというわけです。

 預言者サムエルがダビデに油を注ぐと、「主の霊が激しくダビデに降るようになった」とサムエル記上16章13節に記されています。同様に、新しく選ばれる第二のダビデにも、「主の霊がとどまる」と言われます(2節)。主の霊は第二のダビデに「知恵と識別」「思慮と勇気」を与えます。その霊を、「主を知り、畏れ敬う霊」と呼んでいます。

 冒頭の言葉(3節)にも、「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」と記されています。箴言に、「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節、9章10節、15章33節)と言われていました。コヘレトの言葉にも、「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて」(12章13節)と語られていました。

 これは、ダビデ王朝の王たちが、「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされてはいなかった、ということを示しているのです。ということは、王として油を注がれさえすれば、主の霊に満たされるのではなく、王が御心に適う政治を行うためには、聖霊の満たしが必要だという心を持つからこそ、「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされるということではないでしょうか。

 ですから、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」とは、裁きを行うとき、あるいは弁護に立つとき、自分では判断しないと表明しているわけで、それではどのように判断するのかと言えば、神の御心に適う判断をするために「主を知り、畏れ敬う霊」の導きに従って裁き、弁護するということです。彼の目は人ではなく神に向けられており、彼の耳も神の口から出る一つ一つの言葉を注意深く聴こうとしているのです。

 第二のダビデは、弱い人のために正義を行い、貧しい人を公正をもって弁護します。それが、神が王に望んでおられることだからです(4,5節)。

 キリスト教会は、1節以下のこの段落を、メシア=キリスト預言として読んで来ました。パウロはローマ書15章12節で、この箇所(1,10節)を引用しながら、キリストを論証しようとしています。

 主イエス・キリストが公生涯に入られたとき、聖霊が留まりました(マルコ福音書1章10節など)。また、主イエスご自身も、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(ヨハネ福音書5章19節)、「わたしは自分では何も出来ない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」(同30節)と言われました。

 ダビデの子孫としてお生まれになられた主イエスこそ、まさに、エッサイの株から萌え出た新しい芽なのです。そして、「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ書2章4~6節)。

 私たちも、聖霊に満たされて主を仰ぎ、御声に聴き従いましょう。

 主よ、私たちの耳を開き、御声をさやかに聴かせて下さい。目を開いて、御業を拝させて下さい。心を開いて、御心を深く悟らせて下さい。御霊に満たし、主を畏れてその使命を全うすることが出来ますように。 アーメン