「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。」 イザヤ書4章5節

 2節に「その日には」とありますが、これは、1節の「その日」とは天地の差があります。というのは、1節のその日は、神の審判がユダとエルサレムに臨んだ日です。

 その日、7人の女性が一人の男性と結婚することを望む、それも、パンや着物は自分で何とかするから、名目だけでも結婚したことにして欲しいという、と言います。この女性たちは、3章25,26節で、「シオンの男らは剣に倒れ、勇士は戦いに倒れる。シオンの城門は嘆き悲しみ、奪い尽くされて彼女は地に座る」と言われているように、その日までに夫を失い、やもめとなった女性たちでしょう。

 イスラエルにはやもめを援助する法や制度がありましたが、一人身となった女性が生きていくには、内縁の妻、妾となるほか術がないという、法や制度が崩壊した状態、即ち神の裁きにより、エルサレムが陥落し、南ユダ王国が崩壊した状態を描いているわけです。

 2節の「その日」は、裁きの日ではありません。「その日には、イスラエルの生き残った者にとって、主の若枝は麗しさとなり、栄光となる」と言われています。この日は、恥が取り去られて栄光となり、誇り、輝きとなる日です。「イスラエルの生き残った者」は、何とか難を逃れたとか、生き残れたという人々ではありません。この日のために、神が選んでエルサレムに残しておられた者たちのことです。

 3節に、「シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている」と言われている通りです。つまり、「イスラエルの生き残った者」は、命の書に名が記されていたので、神によって守られ、そこに残ることが出来たわけです。

 4節は、主が罪に満ちたユダに審判を下し、エルサレムの町を焼き尽くすことによって、それを清められる、と言っています。つまり、それまでイスラエルが頼りとしていた、目に見えるすべてのものが滅ぼされ、焼き尽くされることで、もう一度、神のみに頼り、神を仰いで生きる礼拝の民がここに再創造されたわけです。

 それに続いて冒頭の言葉(5節)で、「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を作って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる」と言われるのは、出エジプトの民を荒れ野で導いた「雲の柱、火の柱」の記述を思い出させます(出エジプト記13章21節)。

 その意味で、イザヤは「その日」を、神に背く頑なな者が神に打たれ、神を信じ、御旨に従って歩む者に、救いと解放がもたらされる第二の出エジプトの日として描いていると言ってよいでしょう。

 神のみに頼り、神を仰いで生きる者として再創造されたイスラエルの民のために主なる神は、自ら昼は雲となり、夜は火となって、民を覆われます。雲も火も神の臨在を示すしるしです。もはや、神を礼拝する者、主の御名によって集う者たちから神が離れられることはない、ということです。

 主イエスは十字架にかかられ、死んで葬られ、三日目に甦られた後、天に登り、神の右の座に着かれました。肉眼では、主イエスを見ることが出来なくなりましたが、神は別の弁護者として真理の霊を遣わして下さり(ヨハネ福音書14章16節)、私たちと共に、私たちの内にいるようにして下さいました(同17節)。

 また、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(同20節)と言われました。「かの日」は、神が御業を行われるために選ばれた日ですが、主が私たちの内におられることが分かる日、主を愛する者が父なる神に愛され、主もその人を愛して、ご自身を啓示して下さる日です(同21節)。

 主を信じる私たちの心に聖霊が住まわれ、私たちに主イエスを啓示して下さり、あらゆる霊的な恵みをもって守り、満たし、導いて下さるのです。

 主よ、御名を崇めます。どうか御霊によって汚れを洗い、すすぎ清めて下さい。御言葉によって命の道に導いて下さい。主を拠り所とし、すべてを委ねて歩みます。私たちを通して御業を行い、御名の栄光を表して下さい。 アーメン