「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」 コヘレトの言葉3章11節

 1節に、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とあり、2節以下に14組の「時」が示されます。それは、一組ずつ、「生まれる時」と「死ぬ時」(2節)、「戦いの時」と「平和の時」(8節)など、様々な場面の両局面を登場させ、完全数「7」の2倍の組を掲げることで、私たちの人生のあらゆる出来事、場面がそこに含まれることを示しています。

 著者は、私たちの「時」というものは、過去から未来に直線的に動いているのではなく、それぞれの「時」を行ったり来たり、ちょうど振り子が振れるように行きつ戻りつする、あるいは円運動のように同じところをぐるぐると周っていると考えているわけです。

 だから、15節でも、「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと」、と語っているのです。ということは、コヘレトにとって重要なのは、どこからどこへ行こうとしているのかという方向性や到達目標などではなく、今はどういう「時」なのかということを正しく判断すること、ということになります。

 12節に、「わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と」と言っています。この発言には、素直に肯けます。その言葉に続いて、「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と」(13節)と言います。これは2章24節に似ています。「飲み食い」を喜び楽しむというのは、贅沢をするということではないでしょう。毎日、三度の食事を喜び楽しむということです。「労苦に満足する」というのは、働く苦しみを喜び楽しむということでしょう。

 ですから、「喜び楽しんで一生を送る」というのは、昨日も見たように、刹那的に快楽を追い求めて生きる生き方とは無縁で、あらゆることをその時々に喜び楽しむということ、今自分が置かれているところで、自分に与えられた時、その状況を精一杯楽しむ、出来事、事柄に誠実に向き合う、誠心誠意関わるということでしょう。今がどんなときかを判断し、今必要なこと、今すべきことを一所懸命行うということです。

 9節に、「人が労苦してみたところで何になろう」という言葉がありますが、これは、12節との関連で考えれば、労苦した結果、得られるものに期待するな、ということになります。別の言い方で言えば、今このときを楽しみながら、精一杯働き、歩んで来たならば、その結果がどうなってもよいではないか、と言っていることになります。

 著者は冒頭の言葉(11節)で、「神はすべてを時宜にかなうように」造られた、と言います。これは、神がその時々にふさわしいことを行って下さっているということです。たとい苦難が襲って来ていても、それは神の定められたときで、その背後に神の御計画、隠された意図があるのです。恵みの神を信頼し、すべてが神の御手の中に握られ、すべての時が神によって定められていると信じているからこそ、今このときを精一杯楽しむことが出来るのです。

 パウロが、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを倣い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても空腹であっても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ書4章11~13節)と言っているのも、同じことでしょう。

 瞬間瞬間、状況に振り回されるのではなく、時を定め、すべてを御手の内に握っておられる主の御前で心静かに御言葉に耳を傾け、導きに従って祈りつつ、御業に励ませて頂きましょう。

 主よ、私たちの心の目を開いて、あなたをさらに深く知ることが出来るようにして下さい。主にあって強められ、今この時、自分の置かれた境遇に満足し、委ねられた務めを一所懸命果たすことが出来ますように。ご自身の栄光の富に応じて、私たちに必要なすべてのものを豊かに満たして下さる主に、栄光が世々限りなくありますように。 アーメン