「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。」 箴言20章12節

 箴言に繰り返し語られる教えの一つに、怠け者について語って、勤勉を説く教えがあります。4節に、「怠け者は冬になっても耕さず、刈り入れ時に求めるが何もない」とあり、13節には、「眠りを愛するな、貧しくならぬために。目を見開いていれば、パンに飽き足りる」と言われています。

 「目を見開いていれば、パンに飽き足りる」とは、文字通り、目を見開いてさえいればよいというのではなく、目覚めて勤勉に働けば、ということです。6章6節には、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」と記されていて、蟻とキリギリスの話は、ここから作られたのではないかとも思わされます。

 勤勉を教えるための最も効果的な方法は、親が子に、自ら勤勉に働いている姿を見せることでしょう。外の仕事だけでなく、家事においてもマメに働いている親の姿は、子どもの目に美しく映ると思います。

 さらにもう一つ、その親が、神の御前に忠実にひざまずき、御言葉に聴き従う姿を見せたいですね。冬に耕し、春に種を蒔かないで、秋の収穫を期待する農夫はいないでしょう。私たちの信仰における恵みの収穫も同じです。神の御心を悟ろうとして御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むとき、心が深く耕されて主の恵みが花を咲かせ、努力した100倍も豊かな実を稔らせるでしょう。

 冒頭の言葉(12節)に、「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」とあります。主なる神が人間を創造されたのですから、それはその通りだということになります。あらためてそれが言われているのは、この箴言に語られている知恵を得るための手段として、神が人に耳と目を与えて下さったのだと教えているわけです。

 ソロモン王が、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願ったとき(列王記上3章6節以下、9節)、それを喜ばれた神が、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と約束されました(同10節以下)。

 イスラエルの民をエジプトから導き出すために神がモーセを呼び出したとき、モーセは、「わたしは弁が立つ方ではありません。・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言いました(出エジプト記4章10節)。口が重いというのは本当かもしれませんが、それは言い訳で、実際には気が重かったわけです。

 それに対して主は、「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われています(同11,12節)。

 私たちが見るべきものを見、聞くべきものを聞いていれば、そこから悟りを得ます。特にそれが神の御言葉で、神が、ほかの誰でもないこの私に語りかけて下さっている御言葉に耳を開くことが出来れば、私の語るべきこと、なすべきことがはっきりと示されます。
そのために、耳を造り、目を造られたと言われているわけです。

 今日も憚らずに神の御前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。主イエスの後ろから、その背に目を向けつつ御足跡に踏み従って歩みましょう。かくて真の知恵に与り、主の御心を行う者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちの耳を開いて下さい。あなたの御声をさやかに聴くことが出来ますように。主よ、私たちの目を開いて下さい。主の御顔を拝し、御足跡に従ってまっすぐに歩むことが出来ますように。 アーメン