「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。」 箴言6章20,21節

 新共同訳聖書で冒頭の言葉が含まれる段落には、「父の諭し(8)」という小見出しがつけられています。子を諭す父の教えという設定の段落で、それがここで8回目になるいうわけです。子どものことを思って繰り返し、「わが子よ、父の教えを守れ。母の教えをおろそかにするな」(20節)、と語り続けているのです。

 こういう高圧的な表現には、「偉そうに、父親風吹かすな」という反発する思いが湧いて来るかもしれません。そして、そういう思いもまた、子どもが成長する段階で必要なことかもしれません。

 しかしながら、誰がなんと言おうと思おうと、親は親、子は子です。そこに理屈はありません。親だからこそ、言わなければならないことがありますし、子がそれをどう思おうと、分かっていてもらいたいと思うことがあります。だから口うるさくなりますし、くどくもなります。

 「百聞は一見にしかず」という言葉があります。象がどのような姿をしているか、目の見えない人が、ある人は足、ある人は尻尾、ある人は耳、ある人は腹をさわって、象はこういうものだと百回語って聞かせるよりも、全身を一回見せる方が正確に伝えられる、といった説明がなされます。確かに、一面の真理を表してはいます。見せて伝えなければならない情報もあるでしょう。

 しかし、それで分かるのは外観だけです。足の質感、耳の皮膚など、触ってみなければ分からないことがたくさんあります。象を一度見せて分からせたつもりになっていることと、象のあちこちに触れた感触について百回語って聞かせる人の気持ちと、どちらが子どもの心を動かすでしょうか。

 全身を見たこともないくせにと馬鹿にされようが、触っただけで分かったつもりなのかと言われようが、それを伝えたくて何回も何十回も語ろうとする思いにまさるものは、何もありません。

 親が子を思って語ることもそうでしょう。子どものことが全部分かるわけでもありませんし、これから子どもと自分の身に何が起こるのかなど、殆ど何も分かりません。でも、伝えたいことはうるさがられても、嫌がられても伝える、それが親です。

 主イエスは、祈るとき、神様を「天の父」と呼ぶように、教えて下さいました(マタイ福音書6章9節)。「父」とは、名前ではありません。関係です。私たちが神の子であり、神が私たちの父であるということです。

 キリストがこの世に来られたのは、私たちを神の子とするためだというのです。そして、私たちが子であることは、神が「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を私たちに心に送って下さった事実から分かる、と言われています(ガラテヤ書4章5,6節)。

 聖書中に、「愛」という文字が500回以上、「慈しみ」という文字も200回以上出て来ます。神が私たちをどんなに思っているのか、その言葉の数以上に、独り子キリストを私たちのもとに遣わし、十字架に贖いの供え物とされるという仕方で示されました。考えられないことですが、真実です。

 全身を私たちにあずけるように愛と慈しみを示されました。主が私たちに与えたのが、キリストが私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うように、という戒めです(ヨハネ福音書13章34,35節、15章12,17節、第一ヨハネ書3章11,23節など)。

 神が私たちを父親のように愛して、繰り返し語りかけていて下さる愛の言葉、恵みの言葉を、心に結び、首に巻きつけるようにいつも思い浮かべ、口ずさむようにして、神の御心を心として歩む者とならせていただきたいと思います。

 主よ、御名を崇めて賛美します。私はあなたからそのように愛を注いでいただく値打ちも資格もありません。そして、そのように熱い、深い豊かな愛にこたえる術もありません。ただ、あなたが語りかけて下さる言葉に耳を傾け、それを行わせて下さい、と祈るだけです。御名が崇められますように。 アーメン