「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた。」 詩編135編4節

 詩編135編は、初めと終わりに「ハレルヤ」と記されていて、主をたたえる賛美の詩であることを示しています。
 
 まず4~7節で、イスラエルを選ばれた主は、天と地、海とその深淵において御旨を行われる大いなるお方である、と賛美します。続く8~12節では、歴史の中に働いて、エジプトの奴隷であったイスラエルを解放して、約束の地をお与えになった主をたたえます。そして、13節以下は、異国の偶像は人間の手が造ったものに過ぎないことを語りながら、イスラエルの主は生きておられるお方であると賛美しているのです。
 
 詩人は4節に、「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた」と記しています。主がヤコブを選ばれたのは、なぜでしょうか。
 
 イスラエルの父祖ヤコブは、双子の兄エサウの長子の権利を一杯の豆の煮物と交換して手に入れ(創世記25章22節以下)、そして、兄エサウに与えるはずの祝福の祈りを、父イサクを騙して奪い取りました(同27章1節以下)。

 長子の権利と父の祝福を奪われた兄エサウは激怒し、弟ヤコブを殺そうと思うようになります(同41節)。それを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家に逃がします(同42節以下)。

 母の実家のあるハランの町に向かうヤコブは、旅の途中、荒れ野で野宿します(同28章10,11節)。そのとき、神がヤコブに天に達する階段の幻を見せ(同12節)、そして、ヤコブに祝福を語ります(同13節以下)。即ち、兄から長子の権利を奪い、父を騙して祝福を奪ったヤコブを、神が祝福されたのです。
 
 その後、ハランに着いて叔父ラバンの娘を娶り、家畜を飼う仕事を手伝ったときには多少の苦労はしましたが(同29章14節以下)、神の助けによって、たくさんの家畜を持つようになりました(同30章43節)。そして、意気揚々故郷に帰ることになります。
 
 家に帰るに先立って使いをやったところ、兄が400人の供を連れて迎えに出るという返事です(同32章4節以下、7節)。それに恐れをなしたヤコブは、群れの中から兄への贈り物を選び、それで、兄の心を和ませようと考えます(同14節以下)。
 
 それでも安心出来なかったヤコブは、家族に先にやって、神の使いと格闘します(同23節以下、25節)。格闘の後、神の使いはヤコブに祝福を二つ与えます。一つは、「イスラエル」すなわち「神と人と闘って勝った」という名前(同29節)、もう一つは、腿のツガイが外されて引きずって歩くようになった足です(同32節)。そのため、もう逃げ出すことが出来ません。
 
 ヤコブは、兄エサウと再開を果たします(同33章1節以下)。そして、兄エサウは、弟の罪を全く話題にしません。既にそれを赦し、忘れてしまったかのようです。ヤコブは、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言います(同10節)。これは、おべっかというより、神は罪を赦すお方であるという信仰の表明であり、兄エサウがさながら神のように、罪を赦してくれたことに対する感謝を言い表しているわけです。
 
 神がヤコブを選ばれたのは、ヤコブが優れているからではなく、神の助けと赦しなしには生きられないことをヤコブに学ばせるためでした。イスラエルという名を与えたのは、目的のために手段を選ばないという生き方ではなく、神に信頼し、互いに赦し合い、愛し合って生きる者となること、そのような民を神が御自分の宝とするという祝福なのです。

 主よ、私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の民の一員に加えられました。その恵みに与ったものとして、互いに赦し合い、愛し合って歩むことが出来ますように。それによって私たちがキリストの弟子であることを、多くの人々に証しすることが出来ますように。 アーメン