「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください。」 詩編79編9節

 詩編79編は、74編に非常によく似た、イスラエルの救いを求める祈りの詩です。その背景は、「異国の民があなたの嗣業を襲い、あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました」(1節)という言葉から、紀元前587年の第二次バビロン捕囚という出来事の後、エルサレムに残っている者が記したものと考えられます。バビロンの兵士は殺戮と暴虐を行い、奴隷として連れて行かれなかった多くの者が殺され、遺体を葬る者もないまま(3節)、猛禽の餌食になっているという悲惨な状況(2節)が、そこに描かれています。そのために、残りの者たちは嘲られ、辱められてもいます(4節)。

 詩人は、その状況を神に訴えて、「主よ、いつまで続くのでしょう」と言います(5節)。異国の民に苦しめられているのに、なぜ助けて下さらないのか、いつ手を伸ばして下さるのか、と問いかけます。そして、「あなたは永久に憤っておられるのでしょうか」と記していることで、この苦しみは、神から来ている、と詩人が考えていることが分かります。「永久に憤っておられるのか」という言葉には、捕囚の苦しみを味わって後、かなりの時間が経過したのかとも思わせ、そうすれば、二度と神の恵みに与ることは出来ないのか、神は私たちの祈りを聞いて下さらないのか、と訴える言葉といえるでしょう。

 神が憤っておられるということは、詩人たちに非があることを認めているということです。そのことを8節で、「どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けてください」とも語っています。悪をなした自分たちが拠って立つのは、自分たちの正しい振る舞いなどではなく、立場を回復するために支払う犠牲などでもなく、ただ神の「御憐れみ」にすがるほかはない、と言っているのです。そこでさらに詩人は、「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください」と求めます(9節)。

 イスラエルの民は、もともと、優秀で数の多い民ではありませんでした。エジプトで奴隷の苦しみを味わっていたイスラエルの民を神が憐れみ、モーセを遣わして救い出されたのです(申命記7章6節以下)。つまり、イスラエルが神に愛されて、約束の地に安住しているということが、神の深い愛と憐れみを地の表のすべての民に知らしめる手段とされたわけです。ですから、イスラエルの民が近隣の民に嘲られることは、それは勿論イスラエルの民の罪のゆえですが、しかしそれは、イスラエルの神の名折れになることなので、それはお避け下さい。そのためにイスラエルの罪を赦し、この苦しみから救って下さい、と求めているのです。

 よく考えるまでもなく、この祈りは、なんとムシのいい理屈でしょう。私たちが汚したイスラエルの神の名を、放っておくのは神の名折れになるので、神ご自身が御名を清めるように、と求めているわけです。

 しかし、主なる神は、この祈りを引き取られました。主イエスがご自身の祈りとして弟子たちに教えられた祈りの言葉、即ち「主の祈り」の中で、「御名をあがめさせたまえ」(新共同訳聖書では「御名が崇められますように」マタイ福音書6章9節)と祈りますが、この箇所の原文ギリシア語を直訳すると、「あなたの名が聖くされますように」という言葉になるのです。この祈りをささげよと教えられた主イエスが、ご自身の命をもって私たちの罪を赦し、贖い、御名の栄光を表して下さったのです。ここに、神の愛があります。

 主よ、あなたは「血に対する報復」を、諸外国を征服するという形ではなく、主イエスの贖いにより、全世界を救うという手段で人々の目に表されるようになさいました。その愛のゆえに、私たちも主イエスを信じ、神の民とされる恵みに与りました。主の御心を心とし、委ねられている使命のために自らを捧げて、御名の栄光を褒め称えさせて下さい。 アーメン