「お立ちください。あなたにはなすべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動してください。」 エズラ記10章4節

 エズラは神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、身を伏せていました(1節)。「身を伏せる」(ミトゥナペール)というのは、分詞形の動詞が用いられていて、身を起こして祈り(9章5,6節参照)、罪を告白して身を伏せるという動作が反復されている様子を窺わせます。エズラがひたすら嘆き祈る姿に、イスラエルの人々は深く心さされ、彼のもとに集まりました。彼らも激しく泣きます。

 その一人、エヒエルの子シェカンヤがエズラに、「わたしたちは神に背き、この地の民の中から、異民族の嫁を迎え入れました」(2節)と罪を告白し、そして、「今、わたしの主の勧めと、神のご命令を畏れ敬う方々の勧めに従ってわたしたちは神と契約を結び、その嫁と嫁の産んだ子をすべて離縁いたします」(3節)と悔い改める約束をしました。

 26節の「エラムの一族の(マタンヤ、ゼカルヤ、)エヒエル」がシェカンヤの父エヒエルであれば、父親が異民族の女を嫁に取ったこと、自分はその子であることに心を痛めて、「わたしたちは神に背き」と、その罪を自分のこととして告白し、悔い改めの約束をしたのです。

 シャカンヤは、「今でもイスラエルには希望があります」(2節)と言い、そして、冒頭の言葉(4節)のとおり、「あなたにはなすべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動してください」と告げました。それは、イスラエルの民の総意を代弁した発言でした。

 ここで、エヒエルとは「神は生きておられる」という意味、シェカンヤとは「主が住まわれる」という意味です。罪を告白し、悔い改めを約束した者自身が、「イスラエルには希望がある」(2節)と語るのは、少々心中複雑なものがあります。

 しかし、「神は生きておられる」という名の父を持つ、「主が住まわれる」という名の人物が罪を悔い改めて、泣いているエズラを励まし、立ち上がらせるというところに、神の赦しと導きを見ることが出来るようです。

 「あなたにはなすべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動してください」(4節)と言われて立ち上がり、エズラが行ったのは、律法に従って嫁と嫁の産んだ子を離縁するというシェカンヤの提言をそのとおり実行すると、イスラエルのすべての民に誓わせることでした(5節)。

 集まった者たちに誓いを立てさせた後、エズラは神殿の前を立ち去り、エルヤシブの子ヨハナンの祭司室に行き、飲み食いせずに徹夜で民の背信を嘆き続けていました(6節)。神の赦しをいただくまで、神の御前で悔い改めの祈りを献げ続けていたのでしょう。

 その後、エズラはイスラエルの全会衆を召集し(7節以下)、「今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主の御旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい」(11節)と言うと、彼らは、「必ずお言葉どおりにいたします」(12節以下)と答えました。

 それから3ヶ月に及ぶ調査の後(16,17節)、異民族の女性を嫁に取った者のリストが作成されました(18節以下)。1月1日に調査が終わり、祭司らは、妻を離縁することに同意し、罪を認めて償いのいけにえをささげました(19節)。新しい年を心新たに主に従う年とするということでしょう。

 25節以下には、祭司、レビ人以外のイスラエルの人々のリストがありますが、彼らはどのように行動したのでしょうか。その結果、何が起こったのでしょうか。神はそれを喜んでくださったでしょうか。エズラ記の記述はこのリスト作成で終わっていて、その後のことは分りません。

 しかし、ネヘミヤ記13章23節以下を読めば、ユダの人々がアシュドド人やアンモン人、モアブ人の女性と結婚していることが分かります。ということは、イスラエルの民は、エズラと共に立てた誓いを徹底して守り行い続けることが出来なかったわけです。

 同じ罪を繰り返しているというこの事実は、人間が自分で罪から離れること、罪の誘惑に打ち勝つことは、容易ではないということを表しています。否むしろ、不可能なのかも知れません。

 イスラエルの民のなすべきこととは、何だったのでしょうか。まず、自分で罪の力から逃れることは出来ないという事実を認めることです。救いは神から与えられるものです。義を追い求めながら、神に背く人間の罪深さを悟ったパウロは、救い主を求めました。

 「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ書7章13節以下、24節)と神に訴え、救い主なる神を求めるとき、真に罪を赦し、救ってくださる主と出会うことが出来ます(同25節)。ここに、罪の赦し、救いの確信があります。

 エズラはその事実を悟ったからこそ、民に誓わせた後も、神の前に嘆き、祈り続けていたのです(5,6節)。誓ったことは守らなければなりませんが、それを実行させてくださるのは、神の力、御霊の導きだということです。

 主イエスが復活された後、弟子たちに姿を現わして、「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい」(使徒言行録1章5節)と言われました。聖霊が降ると力を受けて、立ち上がることが出来ます。そして主の使命を果たすことが出来ます。主イエスの十字架の血潮で罪清められ、聖霊に満たされ、その力を受けて、主の御用に用いて頂きましょう。

 主よ、私たちは常にあなたを必要としています。私たちの心の王座においでくださり、私たちをあなたの望まれるような者に造り替え、御旨のままに用いてください。主の祝福と導きが常に豊かにありますように。 アーメン