「イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」 エズラ記9章15節

 エルサレムに到着したエズラのもとに、「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません」(1節)という知らせがもたらされました。それは、カナンの地の娘を娶り、彼らの習慣に従って生活するということでした(2節)。

 エズラは衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、呆然として座り込みました(3節)。それは非常に激しい驚き、悲しみ、憤りを表しています。どうして、イスラエルの一般民衆のみならず、祭司やレビ人まで、そのようなことをするのか、エズラには到底理解が出来なかったのです。

 かつて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから救い出された神は、カナンの住民と婚姻を結び、その地の習わしに従ってはならないと命じられました(レビ記18章3節、申命記7章3節など)。にも拘わらず、彼らはその戒めを守ることが出来ず、神に裁かれて国が南北に分裂し、さらに罪を重ねた結果、北はアッシリア、南はバビロンによって滅ぼされ、捕囚の憂き目を見たのです。

 しかるに神は、イスラエルを完全に滅し去ることをよしとなさらず、深い憐れみによって民が生き残れるようにされました。それは、バビロンで捕囚として生きるという道でした。それも永遠にというのではなく、70年の捕囚生活によって罪を償い、その後にエルサレムに帰り、国を建て直すことが出来るように計画しておられたのです(エレミヤ29章10~14節)。

 神は、ペルシアの国庫負担で民に神殿を建て直させ(6章)、そして、大祭司エズラを派遣して、再建されたイスラエルの民に、掟と法を教えさせられました(7章)。それなのに、再び神に背く道を歩み始めるのです。しかも、「長たる者、官職にある者」、即ち民の指導者たちが率先して道を踏み外したのです(2節)。

 1節に「カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人」と、イスラエルの民と婚姻を結んだ「この地の住民」の名が列挙されています。しかし、エズラの時代、既にヘト人、ペリジ人、エブス人らはこの世に存在していません。これらの名を挙げることで、出エジプト時代の課題が繰り返されていることを、印象づけています(申命記7章1~3節など参照)。

 かつて、出エジプトの民は、約束の地カナンでの生活を始めるにあたり、異民族と婚姻を結び、その習慣を採り入れたので、彼らの宗教行為にも関わるようになりました(士師記2章2,11節以下など)。バビロンから戻って来た民がイスラエルでの生活を始めるに当たり、同じようにする誘惑に駆られ、またも神に背いたわけです。

 ここに、私たち人間の罪の現実があるとしか、言いようがありません。何度叱られても、どんなに罰を受けても、同じように罪を繰り返し、本当に悔い改めるということが出来ないのです。

 そのことを、エズラは祈りの中で神に懺悔し、「わたしたちの神よ、こうした御恩をいただきながら、今何を申し上げればよいのでしょうか。わたしたちは御命令に背いてしまったのです」(10節)と告げます。

 それをご存知でない神ではありません。洪水ですべてが滅ぼされた後、箱舟を出て祭壇を築き、いけにえをささげたノアに、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(創世記8章21節)と仰っています。深い憐みをもって、罪深い私たちに関わり続けてくださるのです。 

 エズラはここで「彼らは罪深い者です。やっつけてください」と言っているのではなく、「お怒りになって、わたしたちを一人残らず滅ぼし尽くされても当然です」(14節)と告げており、続けて冒頭の言葉(15節)のとおり、「御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております」と語っています。即ち、自分もその罪深い者の一員だという告白が、ここにあります。

 この姿勢は、シナイ山で神に背いた民のために、「確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」(出エジプト記34章9節)と祈ったモーセに倣うものであることを思い起こさせます。 

 これはパウロが、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ書9章3節)といって、ユダヤの民の罪を神から見捨てられるべきものだと断じながら、彼らの救いのためならば、自分がそれを身に受けてもよいと、同胞との強い絆を示していることに通じます。

 勿論、主なる神は、パウロを見捨てるようなことはなさいません。かつて迫害者であったパウロを憐れんで救いに導き、さらに伝道者としてお立てになったように、今は不従順の中にいる同胞イスラエルの民も、憐れみを受けるようになると、パウロは信じているのです(ローマ書11章25節以下)。そしてそれは、すべての人を憐れみ救うことにつながると言っています(同32節)。 

 「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(同51編19節)、「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57編15節)と言われています。

 自分を知り、エズラのように、パウロのように、神の御前にぬかずきましょう。神に向かい、神を慕い求めて祈りましょう。神の御心に聴き従いましょう。

 主よ、あなたは私のことをよくよくご存じです。あなたの目に隠れているものはありません。このような有様で御前に立ち得ないのですが、憐れみにより御前に額ずいております。主の憐れみと慈しみが常に豊かにありますように。恵みに応えて歩むことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン