「彼はアサの前に進み出て言った。『アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。』」 歴代誌下15章2節

 オデドの子アザルヤに神の霊が臨み(1節)、ユダの王アサに預言を告げます。それが、冒頭の言葉(2節)で始まる主の言葉です。アサは、クシュ人ゼラの大軍を退け(14章7節以下)、ゲラル周辺のすべての町を撃って(同13節)、多くの戦利品を持ち帰っていました(同12節)。驕り高ぶってレハブアムの道を歩まないよう「勝って兜の緒を締めよ」といったところでしょうか。

 預言の内容について、3節に「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった」と言っているのは、おそらく士師記の時代のことを指しているのでしょう。そのころ、国ははなはだしい騒乱に巻き込まれ、安全に行き来することが出来ませんでした(5節)。国と国、町と町が互いに争い、破壊し合っていたからです(6節)。

 「しかし、あなたたちは勇気を出しなさい」(7節)というのは、14章2節以下に記されている宗教改革を完遂しなさいということでしょう。2節で「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示してくださる」と語られているのは、14章6節でアサ自身が民に告げていたことでした。

 預言者アザルヤについて、父オデドの名のほか、彼のことを知ることの出来るものは何もありません。オデドも8節では「預言者」と呼ばれています。ただ、アザルヤとは「主は助け」という意味であり、父オデドは「回復させる人、元に戻す人」という意味です。そのような名を持つ預言者がアサのもとに遣わされたというのも、偶然以上の意味を持つ出来事ということです。

 その言葉を聞いてアサ王は勇気を出し、ユダの全地から偶像を取り除き、主の神殿の祭壇を新たに築き直しました(8節)。すると、主なる神が彼と共におられるのを見て、イスラエルから多くの者が彼のもとに投降して来たと言われます(9節)。

 かつて、レハブアムの代にイスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、イスラエルのすべての部族の中から、エルサレムに出て来て主を礼拝し、ユダの国を強くしました(11章16節)。しかし、それは3年間という短い間で(同17節)、その後、レハブアムは主の律法を捨ててしまいます(12章1節)。国が固まり、自らも力をつけたことが高ぶりになってしまったのです。

 ヤロブアムの背信のためにエルサレムにやって来て、主を求めつつレハブアムに協力していた人々は、レハブアムの背信を見て、レハブアムを支援することをやめてしまったことでしょう。ここに、主の目に適う正しいことを行う王の登場を見て、再びイスラエルから多くの人々がエルサレムにやって来たわけです(10節)。

 あらためて、主を求め、主と共にいるとは、異教の偶像を取り除き、主の祭壇を築き直すこと、主の御言葉に耳を傾け、その教えを守ることと示されます。かつて神を求めたことがあれば、それでよいというのではありません。私たちが主の霊の導きに与るとき、自分たちの姿、特に罪の姿が示されることでしょう。

 アサ王が主の目にかなう正しいことを行い、異国の祭壇と聖なる高台、石柱やアシェラ像を壊し、取り除いたことが、14章1,2節に記されていました。前に行っていたことを、アザルヤの言葉に力を受けて、ユダとベニヤミンの地でさらに徹底的に行うと共に、エフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき偶像を除き去り、主の祭壇を新しくしたと読むことが出来ます(8節)。

 エフライムの山地は北イスラエルの領土ですが、列王記上15章16節などに「アサとイスラエルの王バシャの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった」と記されているので、ある時期、その戦いの中でエフライム山地の町々を占領することがあって、アサはその町々にあった異教の神々を廃する宗教改革を断行したようです。

 人はいつの間にか、偶像を造ってしまいます。偶像というのは、目に見えるもの、形あるものばかりではありません。自分を安心させようとして、あるいは自分の欲望を満たすために、主を求めることを妨げ、主と共にいることが出来ないようにするもの、それらすべてが偶像です。

 私たちが求めれば、ご自分を示してくださると主は言われますが(申命記4章29節、エレミヤ書29章12節以下など)、神ご自身がご自分を示そうとしておられるので、私たちが求める前から、ご自分を示す準備をしておられるのです。いえ、それだけでなく、私たちに求める心を起こさせてくださるのです(フィリピ2章13節)。

 それが、私たちを祝福してやまない主の御心です(15節参照)。御言葉と聖霊の導きに従い、自分の心の内にある、神にふさわしくないものを取り除かせていただきましょう。

 「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4章30節)という御言葉があります。また、「霊の火を消してはいけません」(第一テサロニケ5章19節)という御言葉もあります。

 そのために「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(同5章16~18節)と命じられます。それは、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」(同18節)だからです。

 喜びと感謝を携えて絶えず神に祈ること、神がそれを望んでおられます。主は私たちと共におられますが、ただ黙ってそこにいるというのではなくて、語り合うこと、交際することを求めておられるわけです。

 また「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5章18,19節)と言われます。主の恵みを受け、聖霊に満たされて、心から賛美のいけにえ、唇の実を主にささげましょう(ヘブライ13章15節)。

 私たちを愛し、恵みをお与え下さる神の御言葉に耳を傾け、感謝と喜びをもって祈りをささげましょう。どんなマイナスもプラスに変えてくださる主を信じ、どんなことも感謝しながら、歩みましょう。

 主よ、あなたの御言葉に耳を傾けます。私たちと共にいてください。心を尽くし、魂を尽くしてあなたを求めます。私たちにご自分をお示しください。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。主の霊に満たされ、その導きに従い、絶えずあなたに唇の実をささげさせてください。御名が崇められますように。 アーメン